お 寺 の 宝

 

お寺の宝(寺宝)は、光明寺そのものと周囲の風光明媚な自然です。この中から強いて「寺宝」として取り上げますと、『ご本尊・千手観世音菩薩』『宝珠弁財天像』『古文書』となりましょう。 それら「寺宝」のうち「ご本尊・千手観世音菩薩」は、すでに触れてあるとおりですし、「宝珠弁財天像」については後述しますので、ここでは「古文書」についてのみ紹介してみることにします。

古 文 書   寺宝「古文書」は、光明寺に三巻保存されています。一巻めは『慶長古文書』で、慶長八年(一六〇三)六月に書かれた文書で(4ページ参照)、寺院宗門御法度です。二巻めは『光明寺古文書』で、正徳五年(一七一五)秋に書かれた文書で(3ページ参照)、光明寺の縁起が楷書でこと細かに記されています。三巻めは『光明寺開基之書』で元禄十三年(一七〇〇)九月に書かれた文書で(7ページ参照)、光明寺古文書とほぼ同じ内容が記されています。

光明寺は二つの札所

千二百有余年という豊かな歴史をもつ名刹・光明寺は、「東上州第三十二番観音札所」と「桐生七福神第一番札所」でもあります。この名刹には、四季を問わずに多くの人々が訪れ、その霊地の功徳にひたっています。

 

 東上州第三十二番観音札所

 本堂に隣接して建つ観音堂が、東上州第三十二番観音札所の霊地です。この東上州観音札所は、江戸時代中頃の宝永五年(一七〇八)四月に〓観道心という人が、開かれたと伝えられています。 当時、盛んになっていた秩父・坂東・西国観音霊場巡りは、想像以上に多くの困難・苦難を伴いました。そこで、道心は、人々がもっと容易に霊場巡りができるようにと、東上州の邑楽・新田・山田三郡にまたがる三十三か寺を『観音札所』に選定し推奨しました。これが、東上州観音札所巡りの始まりなのです。(別説もあります。)

 光明寺は、その三十三霊場の三十二番目の札所になります。

 

      御詠歌   ありかたや ちかひもふかき 千手堂

                      二世あんらくと たれもたのまん

 

観音堂に詣でますと、底の抜けたたくさんの「ひしゃく」が供えられているのを見ます。

これは、「底が抜け水がたまる事なく通り抜けるくらいに、お産が軽くすみますように。」と、安産を祈願する女性が、ひしゃくの底を抜いて奉納したものです。

このたくさんのひしゃくが供えられているということから、ここには、今もなお『産体様信仰』が息づいているということ、大勢の安産祈願者が千手観世音菩薩の御慈悲・御加護におすがりしているということを物語ってもいるわけです。観音堂の見事な彫り物にも、鑑賞の目を注ぎたいものです。

 

 桐生七福神第一番札所

 

桐生七福神は平成四年一月に成立しました。まだ新しい巡拝コースですが、巡拝者も年ごとに増加しており、桐生七福神巡りも市民の間に定着しつつあります。光明寺は、この第一番札所として、福の神『弁才天』をお祀りしています。

 

 弁財天

 弁財天は、インドのサラスバティー河を神格化したといわれ、梵名を薩羅沙縛底(サラスバテイー)といいます。七福神の中では唯一の女神で、かつては土地豊饒の農業神として尊信されていました。それが、やがて美音天・妙音楽天ともよばれて七福神に取り入れられて、吉祥天とともに広く人々の信仰を得るようになりました。鎌倉時代(十二〜十四世紀)以降、弁財天像は二臂(二本の手)に琵琶を持つ姿が一般的になりました。ところが、光明寺の弁財天像は「宝珠型仏塔」という珍しい形の石神であることで、世間からたいへんに注目されている福の神なのです。その飢えに室町時代の造立という古塔(高さ86a)ですから石造文化財としても貴重です。

この弁財天像は、本堂と対峙する枯れ山水(池)のほとりに祀られています。別称『光明寺宝珠弁財天』と呼ばれ、福徳・智恵・財宝の開運があるといいます。また、近くには、桐生七福神が誕生してまもなく造立された「弁財天石神」も安置されています

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