光明寺の歴史
は じ め に

 

「大慈山光明寺は、聖武天皇の御代の天平宝字十一年(七三九)に行基菩薩が、この地に一宇を建立したのをはじめとする」と、お寺の縁起に示されています。開創以来千二百有余年、わたしたちの祖先は幾多の苦難・試練を乗り越えられて、光明寺の維持・発展と曹洞宗の布教に尽くされてこられました。

光明寺は、ご存じのとおり近隣でも屈指の風光明媚な地にあります。寺域はまさに霊地です。その霊地にあって、歴代の住職、檀信徒は常に地域社会の幸せを念じながら、釈尊の教え、道元禅師・瑩山禅師の教えを広めて参りました。

以後、法灯の盛衰は幾たびとなくあり、苦難の道は多々ありましたが、その都度、歴代住職の心血と篤心の人々の厚い信仰の心とにより、それを乗り越えて今日を迎えました。昨今は寺域もたいへんに整備されて、 名実ともに東毛の名刹としての伽藍・偉容を誇るまでになりました。

このときこそ、 わたしたちは、 一度その歩みをしばしとどめて、祖先の築かれてこられた業績をしっかりと振り返り、過去の歴史を見つめ直す(温故)ことが肝要のように思われます。このことは、これからの光明寺の充実・発展を目指す(知新)上で、たいへんに大切ではないかと考えます。また、それが光明寺を維持する住職・檀信徒の務めでもあろうと思います。

そこで、皆さんと共々に、さらに菩提寺・光明寺の理解を深め、あわせて、これからの光明寺の進むべき方向や指針を得ることを願い、「大慈山光明寺」を発刊してみました。

ご一読くださいますようお願い申しあげます。 合掌
大 慈 山 光 明 寺

 光 明 寺 の 歩 み

 

大慈山光明寺は、桐生市の名所のひとつである『吾妻公園』の隣に位置する曹洞宗のお寺で、その吾妻公園を借景とする自然豊かな宮本町三丁目九−一五に在ります。千二百有余年もの寺歴を誇り、千手観世音菩薩をご本尊とする東毛第三十二番札所、石造宝珠弁財天をお祀りする桐生七福神第一番札所という名刹です。そして大本山永平寺と大本山総持寺を本山としています。

曹洞宗は、全国に一万五千か寺を有する大宗門で、次のような教義(大要)のもとに布教・法要を重ねています。

私たちは、だれでも仏心を具えています。しかし、それに気づかずに我が儘な生活を繰り返していることが、悩みや苦しみのもとになっています。反省し懴悔して、お釈迦さまの御教え、両祖さまのお諭しに導かれ、自分の正しい姿に目覚めましょう。

仏さまに帰依して心が落ち着くと、おのずから生活が整えられて明るくなり、仏心に目覚めて社会のお役に立つことを喜び、どんな苦難にも耐えていこうとする信念が強まります。そこに生き甲斐と幸福とを見いだしていくことが、曹洞宗の教義なのです。

この教義のもと、着実な歩みを続けている大宗門・曹洞宗の名刹・大慈山光明寺。その千二百有余年におよぶ、永い歴史の一端をここに紹介してみましょう。


開創は天平十一年に溯る 

光明寺の開創は「光明寺縁起」によりますと、今を溯ること実に千二百有余年前となる天平宝字十一年(七三九)となります。光明寺は、驚くほどの実に永い歴史が残されているのです。

その永い歴史を今に伝えるのは、寺に残されている「古文書・光明寺縁起(光明寺開山之書・3ページ参照)」で、開創期の様子が、詳しく書き記されています。

その光明寺縁起を現代風に要約(概要)してみますと、次のような内容になります。

伝えるところによりますと、聖武天皇の勅願で霊地を求めておられた行基菩薩が、ある夜、観音様からの夢のお告げを受けました。それは「渡良瀬川のほとりの吾妻山景に囲まれたところに聖地があります。そこに観音像を刻んでお祀りすれば、多くの人々を済度することができます。」と言う内容のお告げでした。

行基菩薩が、観音様のお告げによるところの土地を訪ねますと、あまりにも見事な霊地であることにたいへん喜ばれ、さっそく一宇のお堂を建てた上に、刻み上げた千手観音像を祭祀されました。お堂には、月光が輝くが如くに池に映る荘厳なまでの境内の景観を賞でて「水月庵」の名を付け、永く桐生の護りを誓願されました。時に天平十一年(七三九)のことでした。


寛文期から光明寺の寺号に

開創後およそ九百年ほど降って、徳川時代の初期の寛永元年(一六二四)、水月庵では鳳仙寺七世・儀拈牛把禅師を開山に迎えて一寺を建立しました。そのときに「水月庵」を「大慈山光明寺」と改めて、曹洞宗の修業道場として発展させました。これが現在の光明寺興隆の基点となったわけです。

現在では修行の場がさらに広げられ、 毎週月曜日に心の道場としての参禅道場が昭和25年より開単されました。ここでは毎回大勢の人々が修行に励んでおられます。また梅花流御詠歌、 書道、 謡曲等の集いも、やはり心の修行の場として多くの人々のより所となっています。


 

ご本尊は千手観世音

光明寺のご本尊は、千手観世音菩薩です。この観音様は、行基菩薩の作と伝えられている、たいへんに優れた文化財価値の高い尊像で、光明寺の寺宝の一つとなっています。

行基菩薩   光明寺ご本尊の千手観世音菩薩を刻まれた行基菩薩は、奈良時代の天智七(六六八)〜天平勝宝元年(七四九)の僧です。天武十年(六八一)に13歳で出家し、道昭上人、義淵上人らに教えを受けました。

行基菩薩は、ある時とある疑いを受けて一時は伝道を禁じられましたが、廬遮那仏(るしゃなぶつ・奈良の大仏)造像のときに衆庶を勧誘した功績で、天平十七年(七四五)に大僧正に任ぜられました。しかし、その四年後の天平勝宝元年(七四九)に菅原寺で没しました。

伝えによりますと、都鄙を周遊して衆生を教化しているときに、時には一千人もの衆生が追従したと言われています。また、自ら弟子を率いて要所に橋を造り堤を築いてまわりましたので、農家は長い間たいへんな恩恵を蒙ったという伝えも残されています。

聖武天皇から大僧正位を授けられたこと、庶民への慈善活動を重ねられたこと等もあって、上人は、人々から行基上人ではなく『行基菩薩』と称されました。

千手観世音菩薩   ご本尊・千手観世音菩薩は、正しくは『千手千眼観自在菩薩』とお呼びします。お名前のとおり千本の御手をもち、その手ごとに眼を有します。ですから、古来より千手観世音菩薩は、千眼を垂れ千の慈悲の手を差し延べて、もれなく衆生をお救いしてくださる菩薩様と言われます。

光明寺ご本尊の千手観世音菩薩は、とくに「家門繁栄」「諸願成就」「安産・子育」に霊験があらたかとされています。


 

現本堂は昭和四十四年に落慶

現在の伽藍は、昭和四十四年の竣工で、このときに名刹・光明寺の偉容が整ったわけです。昭和四十四年は、一千年を超える気の遠くなるような歳月を経て、開創期当初からの住職・祖先の方々、そして、その時々の檀信徒の夢・願いが実現した年と言ってもよいのではないでしょうか。

この永い歴史の跡は、本堂や庫裡の落慶時に「光明寺の歩み」として、前住職・坪井良榮師が要領よく次のように石碑に刻んでいますので、その全文を併せて紹介しておきます。

光 明 寺 の 歩 み

古記の傳ふる所によれば、當山は遠く千二百有余年の昔、人皇四十五代聖武天皇の天平宝字十一年九月十六日、行基菩薩、観世音の夢告を受け、この地に集まり、山上の霊光池水に映り月光の如くなるを歓び、信仰の中心として水月庵を開創す。降って寛永元年(一六二四)鳳仙寺七世儀拈牛把禅師開山となり、大慈山光明寺と改め曹洞修業の道場となす。爾来、法灯盛衰幾度か移るも、歴代住職の心血と、檀徒各位の協力、加うるに市勢の発展とにより、今日の興隆を見るに至れり。ここに大本山総持寺貫主岩本勝俊禅師を拝請し、本堂庫裡等の落慶式を挙ぐるに當たり、感激描く能はず、ここに石に刻して後世に残すものなり。

昭和四十四年五月二十五日光明寺三十世 良榮謹誌
もどる