長澤是水翁のお話

 桐生郷に名筆をもって聞こえた長沢是水は町屋の庄屋文右衛門正往の子。子供の頃は丑之助と言い長じて正穀、通称は文右衞門で安永元年(1772)父の後をうけて名主兼代官となりました。
 任期中天明7年〈1787〉桐生入り、山地村の百姓一揆暴動の際は、里民を説得し1人の参加者も出さなかったのは、是水の徳によるもので、因に天明年間は浅間の爆発等もあって全国的凶作に見舞われ、特に天明7年は米価が同五年の三倍となり、江戸、大阪をはじめ打毀しは全国にひろまり、桐生では、天明7年正月25五日夜八ッ頃、百姓3〜4百人が行員を吹きならし、2丁目菊屋と5丁目金子伊勢松の家へ乱入、打毀したという騒動です。
  是水さんは弱年より国学を志望。東都に遊び林大学頭の門に学び、書は東江原鱗に師事して筆法の奥義を極め、天明・寛政年間庚申塔がさかんに建設された際は、近隣こぞって 是水の揮毫を乞うたといわれ、社寺の幟旗、扁額も是水の筆に成ったといわれる。
  筆道修業で関西に遊歴し、たまたま大阪鴻池家を訪ねると、主人は是 水の筆力をためそうとして 下男に命じて裏庭へ通し、 砂上に大きな紙料を展げ、 これに揮毫を乞うたので、是水はわきにあった竹箒に墨を付けて得意の草書を大きく書きました。 主人は驚嘆し直ちに玄関に案内して旅装を解かし、そこで是水は携帯していた紋服に着替え、林大学頭門人長沢是水と名乗り、礼儀正しく挨拶し。鴻池には3週間逗留種々揮毫したといいます。是水は書画を愛し、俳階をよくしました。
 その辞世に
  いつまでも長き浮世に生れきてきゆる我が身そこれ水の泡
 はてみな扇の骨や秋の風  
  是水さんは神仏の信仰篤い人でした。特に筆道練達のため、村の鎮守である宮内天神の造営を企て祈願をこめ、明和5年(1768)2月25日創始より寛政4年「1792」9月5日」内遷宮に至るまで25年の長期にわたり、自力で宮殿の完成をはかり石灯籠一対を寄進して神恩に報いました。現在桐生天満宮境内機神社本殿がこれです。
  また菩提所鳳仙寺本堂前に大きな庭石を寄進した話は 是水さんの人となりをはかり知ることができます。
 晩年は、剃髪して写経を事としました。文化9年4月9日、79才で歿。法名は墨池是水居士、墓は梅田町一丁目の梅原館跡内〈薬師堂〈城永寺〉にあります。碑は二つ あって、自然石の方には前出の詠と漢文。更に文化四年内室歿後に建てたと思われる碑は、生前親しんだ筆硯〈筆、手本書、硯の形の碑〉の形の碑が是水、墨の形が内室の碑で、めずらしい風流の形の碑であります。是水さんは桐生ッ子を代表するような気骨と行動力をもった人であり、風流人でありました。
  次に碑文を記します。
  林祭酒門人長沢氏正穀 余難不敏也好遊於筆硯 之聞常時不為事焉先是幼而人於国学業受於林 氏門下学就而帰郷里奉  仕丁慈親之膝下旦而父 母尋逝失於是生涯事止 矣余今茲六十六羸病夾 至因之建墓以営後事而 省於子孫之労而己寛政 十一己末冬

 

長澤是水の師 林大学頭信充の位牌〈薄板に書かれ是水が書いて親戚に各家へ配った物〉

 

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