開基・開山・歴代住職
お寺は、開基・開山があって始まり、檀信徒の信仰心を得ながら、その法灯を心血を注いで守り通してこられた歴代の住職があって、現在の伽藍が在るわけです。ここに改めて、鳳仙寺開基・開山・歴代住職を明記して、その功績を偲んでみることにします。


桐生領主・由良成繁公
信仰心厚く善政を施す

 鳳仙寺の開基は、桐生領主・由良信濃守成繁公です。成繁公は、太田金山城主であった天正元年(一五七三)の三月十二日、当時の桐生城主・桐生親綱公との合戦で勝利し、新たに桐生領主となられた武将です。

 成繁公は、桐生に入部しますと、直ちに新領地の巡視に着手しました。その時には、桐生氏菩提寺の西方寺を訪れたり、同祈祷所であった清蔵院(今の東久方町・大蔵院)へ使者を遣わして、住職たちを安堵させています。また合戦で荒廃した社寺には、修理・保護の手をも差し延べて、人心の安定を図っています。

「資性英邁で、民政の才を兼ね備え、攻めれば必ず取り、治めれば民皆悦服する。」という、成繁公の人柄が、ここに大きく見られ、信仰心の厚い武将であったことが分かります。

 成繁公が、桐生城に入ったのは、嗣子・国繁公に金山城を譲っての天正二年(一五七四)四月のことでした。この桐生入部の年に鳳仙寺を建立し、自らが開基となって「由良家菩提寺」に定められているのです。

 鳳仙寺のほかに、青蓮寺(西久方町)、普門寺(菱町)、母依輪権現(宮本町)を建立、梅原天神再興をも果たし、加えて桐生城の大規模工事の実施、町屋の整備といったことも即座に実施して、桐生領五十四か村の中心的政治都市としての実を挙げ、長い間の戦乱に苦しめられて来た領民たちを大いに安心させています。その上、由良氏の絶頂期までも実現させています。「桐生は、由良氏に滅ぼされて幸せだったところが多々ある。」と、領民たちに言わしめたのも、知将・名将と称えられた成繁公ならではのことと言えましょう。

 しかし、開基・成繁公の桐生での治政は、あまりにも短いものでした。桐生入部後五年にして冥府への旅立ちをされてしまったのです。天正六年(一五七八)六月二十九日のことでした。 成繁公の桐生統治時代は、六年間で終わりましたが、領民に絶大な信頼を得たその手腕は、誠に見事の一語に尽きるようです。

「その葬儀には、威儀を正した関東各地の大小の武将が、鳳仙寺境内を埋め尽くした。」との記録からも、成繁公が領民への善政だけでなく、近隣へ示した武威も大変なものだったことが伺い知れます。

 法名は、鳳仙寺殿中山宗得大居士。墓は本堂裏手の台地上に現存し、桐生市史跡に指定されています。

成繁公の墓

成繁公の墓は、総高125センチメートルの五輪塔で、「祖師再来意」「鳳仙寺殿中山宗得大居士」「天正六年戊寅六月晦日」の銘が見られます。


開山は勅賜・仏広常照禅師

開基の葬送を執り行う

 開山は、朝廷から勅賜号・禅師号を賜った程の高僧・仏広常照禅師です。禅師は、鳳仙寺住職でおられた間に、開基・由良成繁公逝去という大事に遭遇されています。この開基の葬儀を実に盛大に且つ厳かに執り行い、後世にまで語り伝えられるほどの見事な葬送を行っています。

 開山の墓は、開基・成繁公墓の西側、歴代住職墓所の中央に安置されて、移り行く世の中と、鳳仙寺の発展・充実ぶりを見つめ続けられています。

 牛久の金竜寺過去帳に七世・貫芝梵鶴大和尚の名が見られます。この梵鶴大和尚は、仏広常照禅師その人です。

法灯守って三十五代の歴代住職

現住職は百山良廣師

 永い歳月にわたって、名刹・鳳仙寺の法灯を厳として維持し、鳳仙寺の誇りを見事に担ってこられたご住職は、現住職・坪井良廣(百山良廣)師で三十四代目になります。その歴代住職名を紹介します。


勧請 開山

勅特賜仏広常照禅師貫芝梵鶴大和尚 天正十八年(一五九〇)八月二十六日示寂

 

朝廷からの勅賜号、禅師号を冠する高僧。

開山 第二世

黙之宗草大和尚  文祿三年(一五六〇)一月二十八日示寂

 

後年、「室中の法宝」と驚嘆された『夢中問答』を残しました。また能筆な墨跡で知られる学徳兼備の傑僧でした。黙之大和尚の世代に、徳川家康公から御朱印状が下賜されています。

第三世「第二世」

大円門鶴大和尚  元和元年(一六一五)九月八日示寂

 

学僧として高名でした。永平寺二十世住持に晋山して、宗祖・道元禅師の法灯を継承する大任を果 たしています。水平廣録門鶴本を作成

第四世

解翁梵宥大和尚  慶長九年(一六〇四)八月十一日示寂

第五世

長含貫固大和尚  寛永十五年(一六三八)二月十三日示寂

第六世

由山春養大和尚  寛永九年(一六三二)三月二日示寂

第七世

儀拈牛把大和尚  寛永二十年(一六四三)四月十八日示寂

第八世

応山牛喚大和尚  寛文十年(一六七〇)三月二日示寂

 

七世・牛把大和尚とともに、現在の末寺の大半を開山されました。

第九世

重山天両大和尚  貞享四年(一六八七)四月十五日示寂

第十世

一天慈海大和尚  延宝三年(一六七五)十二月十三日示寂

第十一世

曲外嶺松大和尚  正徳二年(一七一二)九月二十一日示寂

 

元禄元年(一六八八)に常法幢・別格地の称号を得ました。

第十二世

大仙嶺隠大和尚  享保六年(一七二一)六月十二日示寂

第十三世

敏山嶺苗大和尚  寛延元年(一七四八)五月一日示寂

 

享保十二年(一七二七)開基・成繁公六代の孫、横瀬貞顕公が、開基の百五十年遠忌を執り行い、五輪塔を修建し、先祖供養にと経文二巻を進納されました。

第十四世

劫外嶺春大和尚  宝暦十年(一七六〇)九月七日示寂
鳳仙寺版正法眼蔵を納めました。

第十五世

桃源嶺仙大和尚  宝暦二年(一七五二)八月九日示寂

第十六世

乙堂喚丑大和尚  宝暦十年(一七六〇)十一月十一日示寂

 

宗門史上貴重な教義を多数著作し、学徳高い宗として仰がれました。貴重な自画像を描き遺しています。宝暦元年六月当寺入山、七年六月退堂。

第十七世

黙外寂曜大和尚  安永元年(一七七二)四月六日示寂

第十八世

宗外全鼎大和尚  安永十年一七八一)十二月二十四日示寂

第十九世

梵鼎周如大和尚  文政五年(一八二二)二月六日示寂

第二十世

弁外周鼎大和尚  文政三年(一八二〇)六月十四日示寂

第二十一世

機外大俊大和尚  天保八年(一八三七)五月十八日示寂

第二十二世

愚海春宗大和尚  天保十年(一八三九)七月二十三日示寂

第二十三世

慶山法春大和尚  嘉永元年(一八四八)十一月二十日示寂

第二十四世

大亮謙道大和尚  明治八年(一八七五)十二月十六日示寂

第二十五世

穆山瑾英大和尚  明治四十三年(一九一〇)十二月四日示寂

 

大本山総持寺独住三世に晋住されました。また、二度にわたって曹洞宗貫主となられました。仏教会や宗門にとって最も多難な明治期にあって、 智見深く学徳高く、 宗門の要職にあって第一線で活躍された希代の傑僧でした。秋葉堂奉安もされました。

第二十六世

蘭州朴道大和尚  明治二十七年(一八九四)一月六日示寂

 

屋根替え工事を行い、楼門を一新させました。

第二十七世

慈海観道大和尚  明治四十二年四月八日示寂

第二十八世

穆光慧観大和尚  昭和二十三年(一九四八)二月二十八日示寂  絡子

第二十九世

俊峰祖英大和尚  昭和四年(一九二九)二月五日示寂 永見寺へ転住

第三十世

黙室秀禅大和尚  大正十三年(一九二四)八月七日示寂

第三十一世

実山隆道大和尚  昭和八年(一九三三)九月十八日示寂

第三十二世

桐山真鳳大和尚  昭和十九年(一九四四)三月一日示寂

第三十三世

百丈不昧大和尚  昭和三十五年(一九六〇)八月三日示寂

旧庫裡を解体し、時代に即応した活動のできる庫裡を新築された。

第三十四世

百仙良榮大和尚  平成拾年(一九九八)五月五日示寂

本堂大改修、山門・石梁閣の改修、平成の鐘の設置などを行いました。また開山墓・山門・梵鐘・輪蔵が桐生市の史跡・文化財に指定されたうえに、桐生七福神の第六番札所(毘沙門天の寺)となりました。

第三十五世

 

百山良廣師 現住職

墓地造成により、檀信徒を大幅に増やし、庫裡、茶室、常磐殿を新築し境内の整備を行い参道を拡張し大いに隆盛にしました。


 

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