鳳仙寺3世、永平寺20世大圓門鶴大和尚の永平寺入院とその活動

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 門鶴の永平寺入院とその活動

  永平寺が一向一揆によって焼失させられたのは祚玖の代であった。祚玖は各地の寺院に瑞世の請状を出すなどして、永平寺の復興に努力したが、つぎの住持は関東から選ぶことを決意したようである。その背景には、すでにみてきたように、関東の諸寺院の力によって、永平寺の運営が支えられてきたという事実が考えられる。一向一揆による火災後、その依存度が強まった結果ではなかったろうか。

 永平寺に領主羽柴秀治の「書状」がある(『曹洞宗古文書』上、二一号、一五頁)。

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 この書状は永平寺が羽柴秀治に青銅一〇〇疋を送ったことに対する秀治の礼状である。この礼状の中に「将又従関東永平寺後席長老被相越侯旨、尤候」と、関東から後席の長老が来ることをすでに承知していることが述べられている。しかも、「尤候」とあって、そのことが妥当なことであると述べていることに留意したい。秀治のような領主の目にさえ、水平寺が関東から後席の長老を迎えるということが妥当なこととして受けとられていたのである。羽柴秀治とは堀氏のことで堀秀政の子である。父秀政が天正一七年五月二七日、小田原攻めの時、早川口というところで戦死している。

その跡を受けて北庄の領主となるが、慶長二年に越後に国替えとなってしまう。したがって、この書状は慶長二年以前ということになる。

 この関東の長老がすなわち門鶴である。では、門鶴はいつ、どこから来たのであろうか、ということになる。それは、群馬県桐生市梅田町、鳳仙寺が所蔵する「大圓門廓置文」から明らかとなる。

     ::2013年06月26日17時08分13秒.pdf

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 最後の文言に「拙僧永平寺へ参候間」とあることから、門鶴(このころは「門廓」)が永平寺に赴くに際しての「置文」であることが知られる。また、この「置文」を作成した慶長二年三月の時点では、永平寺に赴くことは、すでに決定していたが、いまだ鳳仙寺にいたことも知ることができる。門鶴は鳳仙寺の三世であった。このことから考えて、さきの「羽柴秀治書状」は慶長二年の五月一九日のことであろう。

 慶長二年三月には、いまだ鳳仙寺にいたことが明らかとなったが、おそらく年内には永平寺に入ったことであろう。しかし、翌慶長三年八月までは祚玖(球)が住持であったことが知られる。香積寺(新潟県柏崎市西本町)が所蔵する「瑞世請状」をみてみよう。

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 祚玖(球)が署名しているので、慶長三年八月二八日当時においては、住持であることが知られる。しかし、この文書は「大圓」「門廓」という印文を持った判と門鶴の花押もある。これらが、祚玖(球)の署名と同時に行なわれたのか、のちに、現世に登山した折に、あらためて、すでに現住となっていた門鶴から印・花押を受けたのかは不明であるが、門鶴の方は印と花押のみで署名しておらず、その位置も、不自然な所にあり、文書を発したのは祚玖(球)のみであった、とみてよかろう。いずれにしても、住持が交替する時期の「請状」であったことを物語っている。

 

 のちにみるように、門鶴本『永平廣録』第一巻の識語から、慶長三年の冬には門鶴が現住であったことは明らかであるので、これまでみてきたことを整理すると、慶長二年三月の時点では、門鶴の永平寺入りは決定していたが、いまだ鳳仙寺にいた。同年五月一九日の時点では、領主羽柴秀治もすでに承知していた。門鶴が慶長二年中か翌三年に永平寺入りしたかは不明であるが、二年中に入ったとみてよかろう。

しかし、慶長三年八月二八日の時点では、現住はいまだ祚玖(球)が勤めていた。そして、しばらくして、同年冬には門鶴が現住となっていたのである。門鶴の正式な永平寺入院は、慶長三年の晩秋から冬にかけてである。むろん一年後の慶長四年八月二八日に澄江寺(寒河江市木町)に宛てた「永平寺瑞世請状」(『山形県史』古代中世史料1、二六〇頁)には、

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と、門鶴一人の署名しかみえない。

 

 門鶴が上野国の鳳仙寺から永平寺に入院したことは前述したが、同寺は天真派の寺である。同派は越前慈眼寺を中心に周囲に相当の力を有したことは、すでに述べたところである。その他の地方では、上野国や信濃国などに力を持った。また、このころ、永平寺の運営に大きくかかわっていたのが、関東の了庵派と、越前・信濃・上野に拠点を持つ天真派であったことは、源翁派の永平寺出世問題のところで明らかになったことである。関東にいて、しかも、越前天真派と太いパイプで結ばれていた門鶴、が永平寺に入ることになった、とみるべきである。

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 門鶴本『永平廣録』の成立

  門鶴が関東から永平寺に入ったのは、さきに述べたとおり慶長二年(一五九七)のころであった(詳しくは伝を記した項参照)

それから少し後の同三年の冬安居に、門鶴は、道元禅師の語録である『永平廣録』の書写を計画し、実行している。門鶴が永平寺に住職して、まず、手がけた仕事であったといえよう。現存する『永平廣録』の中では一番古いもので、門鶴本『永平廣録』と通称される。同本は10巻10冊で、永平寺に所蔵されているが、その第一巻と第二巻の末尾につぎのような識語がある(大久保道舟編『道元禅師全集』下、筑摩書房、二九・四八頁)。‘

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 この外の第三巻から第一〇巻の識語には、各巻ごとの上堂法語と頌古の記載数しか書かれていない。さて、??の識語をみるに、この『永平廣録』が、当時の住持である門鶴の意志により書写され、永平寺に置かれるごとになったことが知られる。しかし、直接に書写の仕事をしたのは、第一巻では祚光、第二巻では宗椿である。この二人は、門鶴の命によって、この仕事に就いたに相違ない。第三巻以降を書写した人物は不明であるが、とくに識語に書かれてないところをみると、この二人が書写したものであろう。

 道元禅師の語録には『廣録』と『略録』と通称されるものがある。『略録』は、すでに述べたように寒巌義尹が文永元年(一二六四)に入宋し、無外義遠に請い、『廣録』の中から適意のものを抄出してもらったものである。この『略録』は延文三年(一三五八)に永平寺曇希が越前大野宝慶寺の檀越である伊治良知冬の援助を受けて、開板されている。しかし、『略録』に比べれば10倍以上の分量を収めている『永平廣録』の開板は、ずっと遅れる。江戸期に入って寛文一二年(一六七二)に卍山道白が出版するに至るまで、ついにみることができなかったのである。したがって、卍山の開板に先立つこと七四年という時期での書写であるだけに、その意義は一層高いものがある。しかも、『卍山本』と所々に相異をみせており、『永平廣録』諸本の存在を示している。なお、『卍山本』には「坐禅箴」が収録されているが、これは『延文本』からの影響と考えられている。また、この『門鶴本』の写本が栃木県日光輪王寺の慈眼堂に所蔵されている。同本の所々には語録の読み方が記入されており、室町時代に、種々の漢語・禅語がどのように読まれていたのかを示している。

 門鶴の山門再興と高祖三五〇年忌

  永平寺に入院してまもなく『永平廣録』を書写し、安値した門鶴は慶長七年(一六〇二)に道元禅師の三五〇年忌を迎えなければならなかった。この記念事業の一つとして考えたのであろうか、山門を再建している。すでに述べたように天正二年(一五七四)に一向一揆によって焼却きれてしまった永平寺も、当時の祚玖(球)の努力によって、七堂伽藍の主なものは、すでに備わっていたのであろう。山門再建が門鶴の仕事となった。

 永平寺門前の大久保家が所蔵する古文書につぎのような記述がある(宝暦四年三月二五日付、小工市左衛門差出、御本山知事宛「口上書案」)。

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 この文書は、門前の小工市左衛門が宝暦四年(一七五四)三月二五日に、本山に対して、同家が代々小工役を勤めてきたことを主張したものである。これによれば、門鶴の代に山門が建立されたが、その際、(くろ)玄源左衛門が若年であったために、大久保甚左衛門が指図・地割など一切のことを行なった。完成の折、まことの「大工」であると称賛されたが、その時、甚左衛門が「小工」である旨を答えたために、それ以降は「小工」が同家の名目となり、代々永平寺の小工役を勤めてきた、という。

 こうして、山門が建立されたが、門鶴はこれよりさき、この年の二月一日に死去した井伊直政の葬儀のために近江(滋賀県)沢山(佐和山)に赴いている。正徳五年(一七一五)八月一五日に、清涼寺六世東溟辨日が撰述した『井伊家族考』をみるとつぎのような記載がある。

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 門鶴は井伊直政の葬儀のために三〇名の衆僧とともに沢山に二一日間滞留した。その間に葬儀の導師をはじめ、忌中の法要から、百ケ日の法要までの一切を行ない越前に帰った。この時に布施一〇〇〇両を受けたが、それは山門建立の費用に充てられ、その残金は直政(祥寿院清涼奉安大居士)の菩提のための祠堂銭として納められた、ということである。以後、永平寺と井伊家、同家の菩提寺である清涼寺の交流が深まり、井伊家からは、たびたび、歴代藩主の菩提のための祠堂銭が永平寺に納められ、永平寺住持も代々、参内ののちに、清涼寺に立ち寄り、井伊家先祖に焼香するという習慣ができるまでになった、という。なお、井伊家は直攻-直孝(久昌院)-直澄(王竜院)-直該(もり)(直興、長寿院)と次第する。

 ともかく、永平寺門前の大久保家文書と彦根清涼寺の史料が、ともに門鶴の山門再建のことを伝えており、事実であったとみてよい。また、『産福禅寺年代記』によれば、門鶴は、道元禅師三五〇年忌に際し、諸国に勧化を執行したとされるが、これによって集められた浄財も、おそらく、山門再建や、その他の堂屋の修造の費用に充てられたことであろう。

「永平寺史より抜粋」

 

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資料

 井伊 直政(いい なおまさ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将大名井伊氏24代当主[2]上野国高崎藩の初代藩主。後に近江国佐和山藩彦根藩)の初代藩主。

 徳川氏の家臣(家臣になった当時は外様)。自身が組織した井伊の赤備えは戦国屈指の精鋭部隊として特に有名である。徳川氏きっての政治家・外交官としても名高い。遠江国井伊谷の出身で若手の武将でありながら、『柳営秘鑑』では榊原氏鳥居氏と並び、「三河岡崎御普代」として記載されている。また、江戸時代に譜代大名の筆頭として、江戸幕府を支えた井伊氏の手本となった人物であり、現在の群馬県高崎市滋賀県彦根市の発展の基礎を築いた人物でもある。