坪井良栄氏の略歴

本籍地群馬県桐生市梅田町1〜58
現住所群馬県桐生市宮本町3〜9〜15
生年月日大正9年4月11日生
没年平成10年5月5日 11時55分遷化
享年78歳 『百仙良栄大和尚』

住職歴

昭和16年12月26日 戦時特別処置により駒沢大学卒業

昭和17年2月1日〜昭和21年6月29日 入営〜出征〜復員

昭和25年10月19日 群馬県桐生市宮本町光明寺住職

昭和35年8月30日  群馬県桐生市梅田町鳳仙寺住職

 

宗門略歴

曹洞宗 昭和49年群馬県副所長(一期4年) 教区長(三期)管区布教師(三期)青少年教化員(三期)特殊布教師(三期)

桐生仏教会 昭和45年会長(二期)副会長(三期)理事(昭和22年より)

昭和39年5月3日〜平成10年 大本山総持寺地方副監院
昭和35年8月5日緋衣被着特許
昭和53年10月17日権大教師補任
昭和54年2月23日黄衣被着特許

 

鳳仙寺

昭和21年9月17日先師坪井不眛に就いて、入山檀信徒の協力により戦後の荒廃せる

諸堂、境内の修復、庫裏書院の新築、先代に引き続き10万本の植林を行う御開山の遺訓を守りて、鳳仙寺の歴史と自然を守る。平成7年12月20日長男に住職を譲り、東堂となる。

 

光明寺

昭和25年10月19日住職、檀信徒の協力により戦後荒廃せる諸堂、境内の修復、開山堂、山門、位牌堂、本堂の増築、書院、庫裏の新築、青銅地蔵尊、観音像の造立、国有地の払下げによる境内の拡張、駐車場の造成等を行う。

 

公職歴

昭和26年
労働教育委員
昭和31年
保護司を委嘱される
昭和39年
桐生西地区補導委員会会長
昭和41年
桐生市青少年補導推進連絡協議会初代会長(県の推進委員兼務)
昭和41年
群馬県青少年育成推進委員連絡協議会初代副会長
昭和41年
群馬県補導委員連絡協議会初代副会長
昭和43年
前橋家庭裁判所調停委員に任命される
昭和46年
ボーイスカウト桐生6団育成会長
昭和52年
群馬県補導委員連絡協議会会長
昭和57年
桐生保護区保護司会会長
昭和57年
桐生市社会福祉協議会理事
平成2年
桐生調停協会副会長
平成2年
群馬県調停協会連合会理事

 

各種団体

昭和41年
桐生ユネスコ監事
昭和46年
桐生ロータリークラブ副会長(一期)理事(三期)委員長(五期)
昭和49年
日本善行会善行者推薦委員
昭和63年
日本善行会桐生支部監事

 

社会奉仕

昭和25年より
桐生市老人ホームに毎月1回以上の講話今まで延べ536回以上、葬儀奉仕355回、老人の心の相談を行う
昭和25年より
参禅道場、青少年、成人の健全育成を主として毎週1回、また年数回の一泊参禅を行う現在まで延べ50000人以上参加
昭和25年
ひかり子供会を創立、育成会長として幼児、小、中学校育成にあたる(戦後17年間)
昭和52年
光明婦人会 会員数200名を創立
昭和53年
鳳仙婦人会 会員数150名を創立

 

表彰

昭和18年正八位(陸軍少尉任官12月1日)
昭和20年傷痍軍人記章受賞(貫通銃創による)
昭和37年前橋保護観察所長表彰
昭和42年群馬県保護司連盟会長表彰
昭和46年市補導委員として桐生市市長感謝状3回
昭和56年県推進委員として知事感謝状一回
昭和42年防火管理者、同協会理事として市消防長感謝状3回
昭和46年日本ボーイスカウト連盟桐生地区より感謝状3回
昭和47年日本ボーイスカウト連盟群馬より感謝状2回
昭和48年ベトナム、カンボジア難民救済により、南ベトナム政府ベトナム統一仏教会より感謝状
昭和49年日本善行会全国表彰
昭和50年県警少年警察協助員として桐生警察署長感謝状3回
昭和51年関東地方更生委員会委員長表彰
昭和53年群馬県知事表彰
昭和54年群馬県功労者表彰群馬県知事
昭和55年子供会育成会長 市理事として感謝状
昭和55年前橋家庭裁判所所長表彰
昭和56年県警少年警察協助員として県警本部長感謝状2回
昭和56年県推進委員として知事感謝状
昭和56年法務大臣表彰
平成元年東京高等裁判所長官表彰
平成2年東宮御所に於いて善行者として皇太子殿下に御接見を頂く
平成2年藍授褒章
平成2年皇居豊明殿にて天皇陛下拝謁
平成3年藍授褒章祝賀会(2月9日)
平成10年桐生市政功労表彰(5月5日)

 

戦歴

昭和17年2月1日東部第38部隊に入営、10月30日陸軍予備士官学校を卒業12月14日華北派遣桐兵団付きとして出征、12月25日現地到着

昭和18年1月4日第12軍、3月23日桐兵団幹部教育隊に、現地の戦況に適応せる戦闘教育を受ける、4月23日桐兵団最前線の第4中隊付、初年兵教育教官、7月軍作戦に参加、8月20日魯南戦線に於いて尖兵長として突撃、貫通銃創を受け敗血病併発のため12月22日まで入院、12月5日華北最高司令官より戦傷標章を受ける。

昭和19年1月13日初年兵教育教官(第3、第4中隊担当)戦況悪化のため、日夜積極的に打暁、夜襲、斬込攻撃を行う。部隊長の功績評価殊勲甲

昭和20年1月3日桐兵団直属の斬込隊要員教育隊長(将校、下士官にて編成)4月27日第3中隊長拝命、6月20日戦傷により満州関東軍第2病院へ後送、8月15日終戦

9月8日ソ連軍により武装解除、12月20日病院解散、将校軟禁、下士官兵炭鉱に於いて重労働

昭和21年4月2日病院長以下佐官級銃殺、5月3日国民軍進撃、6月13日壺芦島出発、6月26日列車長として生存者843名、遺骨382柱を奉じて、博多上陸復員する

 

お礼の言葉

ここに人生78年の歩みを記載させていただきました。戦場で、又疾病で幾度が死を決し宣告されました。

人生は塞翁が馬のごとしと申します。ここに、一期一会の人生を、御仏と共に、同行二人の生活であり、み仏のご加護と、皆様のご指導、ご協力により、自分なりに信念を持って歩まさせていただいた事を感謝して、お礼の言葉と致します。

坪井良栄  合掌

 

おわりに

上記の文章と略歴そしてお礼の言葉までも本当に、生前に本人が書いたものを簡単にまとめた物です。何事にも几帳面で「おもいでの記」と名付けたノートが何冊も残っており、生活や当時の物価まで何でも記録していました。

心筋梗塞で心臓病を患ってから、おしどり夫婦である(美子)の献身的な努力で何度も入退院と手術を繰り返しながら、その後良く14年も長持ちしたと思っています。しかしだんだん体力が弱りながらもそれなりに、元気で楽しい生活をしていました。しかし、平成10年4月22日、予期もしない突然のクモ膜下出血での妻の急逝から、生きる気力が無くなってしまい、「お母さんが迎えに来た」が口癖になり、その2週間後の5月5日、後を追う様に脳梗塞により死去致しました。

本人のいつも持っていた手帳から、死を覚悟し、本人が自分で綴った漢詩を見つけました。

   最後にその漢詩を記します。

     『遺偈』

人生歳月只一夢  古刹清風拂暗雲

 

遺弟 良廣 合掌


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