開基と歴代住職を訪ねる

光明寺は、千二百有余年の歴史がありますが、「光明寺開基」「光明寺歴代住職」として記録されている方々は、「水月庵」が「光明寺」と改められてから後の江戸時代以降の方になります。それ以前の方は、残念ながら記録も墓碑も位牌も残されていません。今となっては、調査の手立てがみつかりません。

以下に記録します方々は、すべて光明寺の名称となってからの開基・住職です。


開基は僧籍の方

開基(お寺を開いた人)は、一般には俗人なのですが、光明寺の開基は「雲碩和尚」なっています。僧籍にあった方が開基というのはたいへんに珍しく、寺歴の永さとともに光明寺の特色の一つに挙げられるべきことでしょう。

この開基・雲碩和尚について、桐生市史では、次のように述べています。

 

雲碩は通称三郎次といゝ、桐生新町岩下三郎右衛門の祖父である。寛永年間(一六二四〜一六四三)現在の宮本町光明寺は、水月庵と称し小庵であったが、背に奇岩崔巍青松全る山をおおい風光秀麗であった。雲碩は資材損じ庵を廃して、寺院を建立し、寺号光明寺と改め、自らは薙髪して雲碩と称した。

鳳仙寺儀拈牛把大和尚を招いて開山とし、自ら開基の住職となって、家を損て寺に移り住んだ。付近一帯の風致に力を須いたので、泉石清麗眺望絶景であった。雲碩はこれを愛して家に還ることを忘れた、ということである。寛文七年(一六六七)八月十四日遷化。法号学叟雲碩和尚。(桐生市史)雲碩和尚は、桐生の旧家・岩下医院の本家がご先祖であると言います。墓は、本堂裏手に祀られる歴代住職の墓所の一角に見られます。

小塔ではありますが、基壇や蓮台を設けた品格のある無縫塔で、

 

    『當山開基 学叟文雲碩和尚 寛文七年(一六六七)壬未天 八月十四日

     新町 施主 岩下氏』

 

との銘が刻まれています。


前住職・良榮師は第三十世先述のように、光明寺開山(第一世)は鳳仙寺七世・儀拈牛把大和尚です。以後、第三十世(現住職)坪井良榮師に至るまでの永い寺歴を誇る光明寺。その光明寺の永きにわたる法灯を、世相変化の激動の波に揉まれながらも、今日まで営々として守ってこられた。

歴代のご住職

その方々は、次のとおりです。

   開  山  儀拈牛把大和尚〈鳳仙寺七世〉

   第 二世  天外秀雲大和尚

   第 三世  融峰寂通大和尚

   第 四世  陽岩嶺重大和尚

   第 五世  敲契雲門大和尚

   第 六世  本水宗源大和尚

   第 七世  石橋大梁大和尚

   第 八世  大安全午大和尚

   第 九世  石操凌雲大和尚

   第一〇世  潭月円澄大和尚

   第一一世  雷雄義黙大和尚

   第一二世  雲眠寂潭大和尚

   第一三世  大峯高道大和尚

   第一四世  機外俊大大和尚

   第一五世  朴鳳英淳大和尚

   第一六世  朴応流淳大和尚

   第一七世  光順玉瑞大和尚

   第一八世  透宗歩関大和尚

   第一九世  廓岩諦然大和尚

   第二〇世  香道仙桂大和尚

   第二一世  泰道歩随大和尚

   第二二世  大俊良悟大和尚

   第二三世  大安定山大和尚

   第二四世  独立未逢大和尚

   第二五世  百丈不昧大和尚〈鳳仙寺三十三世〉

   第二六世  諦禅碩宝大和尚

   第二七世  雲庵禅忠大和尚

   第二八世  中興大仙英俊大和尚

   第二九世  悟山俊道大和尚

   第三〇世  中興百仙良榮大和尚〈鳳仙寺三十四世〉

   第三一世  坪井良廣師〈鳳仙寺三十五世〉

   第三二世  坪井良榮師

   第三三世  坪井良行師(現住) 

歴代住職の墓は、開基のところで述べましたように本堂の真後ろの高台に在ります。開基の墓と同型の開山・儀拈牛把大和尚の無縫塔の墓を中心にして、その左右に歴代住職の墓が二段に並んでいます。

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