これまで述べてきました事項以外に、鳳仙寺寺域内には、まだまだ見落とすことのできない多くの文化財・史跡等が現存しています。各種の扁額、襖絵、桐生七福神の毘沙門天像、保存樹・カヤの木、巨石、一葉観音、勅使門跡、いぼ地蔵、大阪夏の陣の桜と雨降り地蔵尊などがそれです。
 それらに「民話」などを加えて、この項で網羅してみることにします。

文化財価値の高い扁額四点

「桐生山」の扁額
 市指定重要文化財の『山門』に掲げられているのが、鳳仙寺の山号である「桐生山」の扁額です。筆太の堂々たる文字が配された江戸中期の書家「佐々木玄龍」の見事な作で、曹洞宗の常法幢・別格地の鳳仙寺にふさわしい、すばらしい扁額です。

 この扁額は、山門建立の時に掲げられたものなのですが、三百余年間にわたって「史実」とみられてきた珍しい伝承がありました。それは、まったくの誤りですので、それを正す意味からも、あえてそのことに触れてみることにしました。

「珍しい伝承」とは、
 鳳仙寺山門の「桐生山」なる額は、もと西方寺にかかっていたものである。それが、桐生落城の際に由良勢の手によって西方寺から奪われ、後に鳳仙寺の山門に掲げられるようになった。というものです。

 これについて、西方寺側でも、西方寺では、かつて桐生山と称したことはなかった。西方極楽浄土の西方という語から寺号をとり、極楽にあるという宝樹から山号をとったもので、宝樹山と西方寺の語句は、もともと一対であること。桐生助綱(祐綱)の永正十八年(一五二一)の銘文にも「宝樹山西方禅寺」と書かれていること。江戸時代の古記録には「桐生山西方寺」の文字が、いっさい見られないこと。を列挙して、その事実を否定しています。

 鳳仙寺側からみましても「桐生山鳳仙寺」という山号と寺号は、桐と鳳凰という好一対の語であり、鳳仙寺には、最も相ふさわしい組み合わせなのです。このことからしましても、また西方寺側の反論理由からしましても、先述の伝承は、明らかに史実ではなくて伝説だったと言えましょう。

 このように、伝承は、全くの事実無根なのです。それだけに『桐生山』の扁額は、たいへん珍しい伝承を有する扁額と言うことができます。いつ、だれが、このことを発表したのか、また、なぜ三百余年間もの長期間にわたって「史実」とまでみられてきたのか。これらは現在もいっさい不詳です。

「鳳仙寺」の扁額

 「鳳仙寺」の扁額は、本堂内に掲げられています。全面に貼られた金箔の上に、流暢な筆さばきで『鳳仙寺』の三文字が書かれており、山門の「桐生山」扁額の文字とは、実に対照的な筆勢を示しています。

 この扁額からは、豪華さの中にも清浄な雰囲気を多分に感じ取ることができます。

「石梁關」の扁額

 「石梁關」〈せきりょうかん〉の額は、檀信館玄関正面に掲げられています。
この扁額の文字は、江戸時代の学者であり書家として著名な東江源鱗(沢田東江)が揮毫しているもので、書道史資料としても貴重な文化財です。裏には寄付者長澤氏の名前と寛政元年8月の記載が見られます。

東江源鱗(とうこう・げんりん)は、次のような人物です。
享保十七年(一七三二)に、江戸(東京)で代々の商業を営む家に生まれました。通称は文次郎で、林鳳谷に朱子学を学び、高碩斎に書を学んで来禽堂と号しました。書の面では、書法を中国の魏や晋に溯って研究をし、楷書・行書・草書・隷書・篆書など、広範囲にわたってよくこなして、「作品は温雅で品位が高い」と称された江戸時代の書家です。

代表的な作品には、伊勢の神路山林崎文庫境内に建てられた楷書の「孝経碑」、習字帖「蘭亭」「古今集序」があり、軸・額物作品も多くあります。書道に関する著書も、また多くあります。 

 鳳仙寺では、ご存じのとおり、檀信館を「石梁閣」と呼称していますが、これは、この扁額の存在を誇りにしての名称でもあります。

東江源鱗(とうこう・げんりん)
は、次のような人物です。
享保十七年(一七三二)に、江戸(東京)で代々の商業を営む家に生まれました。通称は文次郎で、林鳳谷に朱子学を学び、高碩斎に書を学んで来禽堂と号しました。書の面では、書法を中国の魏や晋に溯って研究をし、楷書・行書・草書・隷書・篆書など、広範囲にわたってよくこなして、「作品は温雅で品位が高い」と称された江戸時代の書家です。

代表的な作品には、伊勢の神路山林崎文庫境内に建てられた楷書の「孝経碑」、習字帖「蘭亭」「古今集序」があり、軸・額物作品も多くあります。書道に関する著書も、また多くあります。 

 鳳仙寺では、ご存じのとおり、檀信館を「石梁閣」と呼称していますが、これは、この扁額の存在を誇りにしての名称でもあります。

「選佛塲」の扁額

 「選仏塲」とは、座禅堂のことです。大本山の座禅堂にも「選佛塲」の扁額が掲げられています。鳳仙寺に、大本山と同じような「選佛塲」扁額が伝えられているということは、曹洞宗出世道場である鳳仙寺の面目を、大いに表しているものといえます。

 この選佛塲扁額も現在は、本堂内に掲げられています。揮毫は禅僧・月舟宗胡師です。

 宗胡師については、次のような記録が見られます。 

 月舟宗胡(げっしゅう・そうこ)師は、元和四年(一六一八)に肥前(佐賀県)に生まれた、江戸前期の禅僧(曹洞宗)です。十二歳で出家したのち、丹波(京都府と兵庫県)の瑞巌寺の万安師について参禅。三十一歳で加賀 (石川県)の大乗寺の日峰玄滴師のもとに参じて、その法を嗣ぎました。

 一旦は摂津 (大阪府と兵庫県)の宅源寺に住しましたが、やがて大乗寺にもどり大いに宗風を盛り上げました。晩年は京都の田村村に隠居され、元禄九年 (一六九六)に示寂されました。

保存樹・カヤの樹


樹齢は四百三十年を超える

 本堂の前で、大空いっぱいに枝を広げてそびえ立つ大樹。これが桐生市の保存樹に指定されているカヤ(榧)の樹です。
 桐生のパワースポットと言われ、近づくだけで元気がもらえます。

 開山・仏広常照禅師お手植えの樹と伝えられており、樹齢は、保存樹指定を受けた段階(昭和五十二年九月十九日)で四百三十余年と推定されている『古木』です。高さは29・5メートル、幹の周囲は3・72メートルもあります。

 第三十三世・百丈不昧住職が、生前に、「昔は、このカヤの実をお駕篭に乗せて、はるばる江戸幕府にまで献上したと聞いています。」とお話をされていました。

桐生市の保存樹指定番号は『1』・・・・・ それにしても、見事なカヤの大樹です。

本堂を引き立たせる襖絵

平成四年に念願の山水画完成
 本堂に入りますと、襖絵の見事な山水画が目に飛び込んで来ます。この山水画は平成四年に完成したもので、鳳仙寺はもちろんのこと、檀信徒念願の作品です。

 作者は中国・天津在住の愛新覚羅流崎(あいしんかくら・いくじゅん)さんです。愛新覚羅さんは、ラストエンペラーと言われる、清朝最後の皇帝・溥儀(ふぎ)さんの甥にあたる方です。

 襖絵は、全部で十八点ありますが、襖絵に仕立て上げられたのは、このうちの十点で、あとの四点は屏風絵になっています。心を落ち着かせ、じっくりと鑑賞していますと、この襖絵が大変味わいのある、優れた芸術作品であることに気づかれることでしょう。

虚空蔵菩薩・聖観世音菩薩など

 石梁閣の西側の書院内にも、立派な三体の仏像が安置されています。虚空蔵菩薩像、聖観世音菩薩像、秋葉三尺坊威徳大権現像がそれです。

 虚空蔵菩薩像  虚空蔵菩薩は、広大無辺の功徳を包蔵しておられる菩薩です。この菩薩は胎蔵界曼陀羅虚空蔵院に所属して、そこの主尊となっています。釈迦院では、釈迦牟尼仏の右方脇侍となり、金剛界では、賢劫十六尊中に在る菩薩です。また「弘法大師が真言密教を開宗するに至った記念的な菩薩である」とも伝えられています。
像容は、穏やかで豊満なお顔の頭上に、五仏(大日如来、阿門如来、阿弥陀如来、不空 成就如来、宝生如来)の配された宝冠をつけ、左手に如意宝珠、右手に剣を持つという、 虚空蔵菩薩の特徴を如実に示しています。
 この菩薩は「大空のように広い功徳」をもち、「知恵と抜群の記憶力】を授けてくださる といわれます。物事を暗記することを「そらで覚える」とか「そらんじる」といいますが、この「そら」は虚空蔵菩薩の『空』から転じたものだそうです。
 また、虚空蔵菩薩の「こくぞう」という音(おん)が蚕の糞の「こくそ」と似ているところから、各地の養蚕家から大変に信仰された一時代がありました。
 梅田町をはじめとする桐生地域も、旧村当時には養蚕が大変に盛んでした。ですから菩提寺の虚空蔵菩薩にも、あるいは、養蚕家からの厚い信仰がよせられた時期があったのではないでしょうか。興味のあるところです。
 ところで、平成期になって、この虚空蔵菩薩像の胎内から墨書が発見されて、造像され た年代や寄進者などがわかりました。墨書に、享保八年(一七二三)の菩提寺衆寮造営の折りに、今泉村の板倉武兵衛という方が、父や御先祖の供養のために像を新彫し、菩提寺に寄進した、という内容が書いてあったのです。

今茲享保八癸卯季(一七二三)秋重而衆

寮造営之因奥有千外護信

心之父老也為於先霊而新彫

刻干虚空蔵大士之尊像而

即奉於安置者也矣

施主今泉村板倉武兵衛

鳳仙見住繁山叟代 

 この墨書によりますと、繁山大和尚の享保八年のときに造像されているのですが、享保 八年の時の御住職は第十三代・敏山大和尚です。おそらく「敏」を「繁」と誤記してしまったのでしょう。  享保八年は、開基・由良成繁公の百五十年遠忌が横瀬哀願公(成繁公六代の孫)によっ て執り行われた、由緒ある年でもあります。また、この年に本堂裏手の墓地に在る、成繁 公五輪塔も建立されているのです。
  聖観世音菩薩像  虚空蔵菩薩像と並んで安置されている像が、聖観世音菩薩像です。聖観世音菩薩は、変化しない本然の観世音菩薩のことで、変化観音(十一面観音・千手観音・如意輪観音ほか)と区別するために『聖』の文字を冠したとされます。
 聖観世音菩薩は、諸仏菩薩中では、もっとも広く信仰されている尊で、三十三種の姿に身を変えて(三十三応現身)、諸々の苦悩に悩む一切衆生を救済してくださる尊と言われています。
 書院内に祀られる聖観世音菩薩の造像年は不詳ですが、虚空蔵菩薩像とほぼ同時代ではないかと、推測されています。

秋葉三尺坊威徳大権現像

 秋葉三尺坊大権現像は、小さな厨子に納められている小さな尊像ですが、見事な像で拝観れる人々の心を引き付けます。
 この尊像は秋葉堂の本尊で、火防祈願をはじめとする、人々の諸願成就に御利益を与えてくださっています。
 平素は、書院内に安置されていますが、大祭などには堂内に遷られて、善男善女の祈願をお受けになられます。

桐生七福神の第六番札所として

 鳳仙寺では、毘沙門天(よく説法を聞くので多聞天の名もあります。)もお祀りしています。毘沙門天は、本名をヴィシュラマナと言い、持国天(東方)、広目天(西方)、増長天(南方)とともに四天王のひとりとして、仏教道場の北方を守護する仏です。

 後に七福神の一人に加えられて、信仰されるようになりましたが、今でも仏法を守護し、苦を除き楽を得させるという福徳を授ける仏・神として、多くの人々から独立して信仰されています。また、富貴・官職栄達・勝軍祈願の対象にもなりましたので、庶民だけでなく国家鎮護の際や武人の信仰も得ました。中でも、戦国時代に上杉謙信が深く信仰したことは、あまりにも有名です。 鳳仙寺の毘沙門天は、ことに金運・開運・厄よけ・学業成就に霊験あらたかとあって、平成四年一月に誕生した『桐生七福神』の第六番札所にもなりました。

 毘沙門天像は、本堂内にお祀りされており、造像は江戸時代と推定されます。

燈籠そして石幢

 本堂の前と池の前に二基の建立物が見られます。前者は金銅燈籠で、後者は全国的にも造立数が少ないと言われる石幢(せきどう)です。

見事な金銅燈籠 
 二段の石の基壇の上に、「菊の紋章」と「献燈」の文字を金色で浮き上がらせて建つ見事な金銅の燈籠。この燈籠は小林はぎさんが、先祖供養のために昭和五十八年(一九八三)に建立したもので、次の銘が竿部に刻まれています。

献  燈

小林家先祖代々菩提供養也
永泰院本源茂道居士菩提
昭和五十八年三月二十二日
施主 小林はぎ
嗣子 小林満寛
三十四世  良 栄
副  住  良 広

朱のあとが残る石幢

 石幢は、多仏塔とも言われ、「本堂の本尊前に飾られる幢旙(どうばん)の形を石造物にしたもの」という説と、「今後に研究を深める余地がある」とする説とがあります。どちらにしましても、全国的にも造立数の少ない事は前述した通りです。
 形態には単制と重制とがありますが、鳳仙寺の石幢は重制石幢です。重制石幢は、丁度、燈籠の火袋部分にあたる龕部(がんぶ)に、仏像を六~八体刻みます。(桐生市内の石幢は、ほとんど地蔵菩薩を刻んでいます。)

〒時寛永廾壹甲申年(一六四四)九月吉日

             祖主 藤  生

 鳳仙寺の石幢には以上の銘が刻まれ、龕部には地蔵菩薩が陽刻されています。龕部の地蔵尊には、朱の塗られた痕跡が見られます。

巨石(献霊水の庭石のいわれ)

鳳仙寺14世劫外嶺和尚の代、宝暦4年(230年前)頃、下久方村町屋(現在天神町3丁目)、長沢是水翁が、百両余りの大金を投じて、低い沢より曳き上げ施主名を刻して献納したものである。当時の百両は、石工職人の手間賃換算で6年6カ月分に相当する。
同時期、同村の長沢市太郎左衛門は常法幡金として、金百両を寄進した。世の人は、その信仰心を誉め称えたが、是水翁には、「同じ大金投じて石組1つ、何の 益になる」と、失笑を浴びせた。是水翁これに答えて曰く「その百両使い果たしてしまう事も有り得るがこの大石には施主名が彫り付けてあり、後の世になっても、ただ捨てる筈もない。また捨てるにも10人や20人では動かすことも出来ない」。「思うに何れを是とし何れを非とするか」。

 以上は、広きこの世に名を残す種として、江戸時代の書物『齢松佳琴集』に大きく是水翁の名を残している。

次に長沢是水翁の履歴を上げてみたい名は、正穀、幼名は丑之助、通称は、文右衛門、享保18年(1733)生。39才の安永元年、父の後をうけ、名主兼代官となった。任期中の徳望は厚くその逸話は多い。

また国学を林大学頭信充の門に学び、書家として東江源鱗に師事して筆法の奥義を極め、桐生郷中名筆をもって聞こえ た能書家。

書家学統は、唐様広沢流。信仏の信仰篤く、筆道練達祈願の為、宮内天満宮を自力で造営している。現在の桐生天満宮境内社機神本殿がこれである。

文化9年(1812~172年前)4月9日没、享年79才。法名 墨池是水居士、墓は、梅田町1丁目、梅原館跡内、筆、手本書、硯の形の碑。墨の形の碑は、内室の墓石 

一葉観音

「本堂前の放生の池の中にあります」平成21年建立

池の中の岩の上に小さな舟があり、その舟の中に観音様が座っています。曹洞宗の開祖道元禅師が、中国へ渡海した時に嵐に会い、観音教を唱えると一葉に乗った観音様が現れ、海が穏やかになったという話に基づいています。穏やかな顔の観音様です。

 

勅使門跡に昔を偲ぶ

 鳳仙寺が、桐生領主・由良成繁公によって、この地に創建された天正二年(一五七四)には、みごとな勅使門が設置されていました。開山・勅賜仏光常照禅師のご威徳によるものでした。 四世紀半になんなんとする歳月の経過が、今は、その由緒ある勅使門の姿を過去のものにしてしまいましたが、設置された当初は、鳳仙寺の伽藍を周囲の緑にひときわ映えさせる、すばらしい勅使門だったようです。

 勅使門の在った位置は、大門と山門(市重文)との間で、現在は『勅使門跡』の四文字が彫られた石柱が建てられています。

明治の鳳仙寺石版画

明治4年9月の石版画には、今はありませんが、勅使門、小庫裏、渡り廊下、土蔵、宝蔵、厳徳堂、開山堂、水車小屋などが見られます。

 

石の大灯籠

勅使門後の手前に 山門に向かう石橋と階段の手前に、高さ12メートルの石の大灯籠がそびえています。

大坂夏の陣の桜 隣りには雨降り地蔵尊

 勅使門跡から総門方面へと歩みを進め、「威徳の滝」を過ぎますと間もなく、右側に一本の桜と地蔵菩薩像が見られます。それが『大坂(大阪)夏の陣の桜』と『雨降り地蔵尊』です。 大坂夏の陣は、元和元年(一六一五)に起こった豊臣方と徳川方との合戦で、この結果、名家・豊臣氏が滅亡し、徳川氏が幕府設置への足固めに入ったのは、皆さんご存じのとおりです。

 この桜については、「古老の伝えるところによる」として、次のような伝承が今に残されています。

 大坂夏の陣(慶長五年、一六〇〇年)で豊臣方が敗れたとの報せを耳にした某は、すぐさま地蔵尊像一体を刻み上げて、鳳仙寺寺域内のこの地に祀り、合戦で斃れた両軍の昇将兵たちの霊を供養しました。そして、さらに地蔵尊像の隣りに桜の木一本を植えました。桜

の花の散り際を将兵の散華になぞらえたのでしょうか。桜の木は、それが古木化しますと幼木に植え替えては、現在を迎えてきました。

地蔵尊を建立し桜を植樹した某が、豊臣・徳川両氏とどんな縁故にあった者なのかは、定かではありません。

 桜の木の隣りに建立された地蔵尊には、『雨降り地蔵尊』という、異名がつけられています。それというのも、雨雲ひとつ見られない晴天の日だというのに、この地蔵尊の体が、まるで雨に出会ったかのように濡れているということが、時々あったからでした。

 このことが先年、新聞社やテレビ局に取り上げられて、全国に報道されましたので、かなり有名になり、一時期は、地蔵尊の前に大変な人だかりができたほどでした。現在は、もとの落ち着きをとりもどして、地蔵尊もやっと静かな佇まいを見せるようになりました。

息づく「イボ地蔵」伝説

心のイボ・病いのイボも取り除く 
 山門前に建つ石仏にも、珍しい俗信仰伝説が伝えられています。祈願しますと、体にできたイボを取り除いてくださるというのです。祈願によっては心のイボ、病いのイボまでも取り除いてくださるということもあって、最近では「がん」治癒の祈願に訪れる方がふえています。この信仰は、すでに江戸時代からあったという、実に息の長い信仰になっています。

 ところが『イボ地蔵』と呼ばれている石仏は、実は地蔵尊でなくて薬師如来なのです。薬師如来が、いつごろから、このような誤った呼ばれ方をされるようになったのかは、わかっていません。

 イボ地蔵伝説の概要は、次のようです。

 体にできるイボは、痛くはないけれど、なんとも邪魔なものです。また、イボから出る水汁で増える、うつるなどと言われましたので、昔はイボができると、イボ取りに効くというイチヂクの白い汁をつけたりして、なんとか取り除こうと努力をしたものです。そのイヤなイボが、鳳仙寺山門前のイボ地蔵様にお願いすると、取り除いてもらえるというのですから、イボ地蔵様の前には、いつも祈願者の長い列が続いていました。

ヤマイモの実を糸で繋いで数珠のようにし、お地蔵様の首に掛けてお願いするだけでよいと言うのですから、イボに悩む人たち大勢が連日押し寄せたのです。その人の波を見て、せせら笑う男がいました。

 「そんなの迷信だい。イボなんか直るもんかい」

 と言っては、祈願者たちにいやな思いをさせ続けていたのです。

 ところで、ある日のことでした。くだんの男が、いつものように祈願者たちを茶化すと、突然トコトコトコッと、隣りの山門に駆け上がり、なんとそこからお地蔵様めがけて小便をかけ始めたのです。

 そんな、とんでもないことをしでかした夜、男は布団に入ると間もなく、高い熱を出して苦しむ羽目になりました。さすがの男も「さては仏罰?」と、昼間の自分の行為が気になってしまいました。

 その夜、男は高熱のため苦しみ通しで一睡もできませんでした。が、朝を迎えての冷気で、夜明けには、少しは気分がよくなりましたので、顔を洗いに外の井戸へ向かいました。そして、井戸端で朝食の用意がてら世間話をしていた、おかみさんたちに、

 「お早よう。」

 と声をかけました。その声に振り向いたおかみさんたちが、男の顔を見たとたん、いっせいに悲鳴を上げて飛びすさりました。その悲鳴に、男が思わず自分の顔に手をやると、なんと肌がゴツゴツ—–。

 びっくりした男は、家へとって返すと、すぐさま手鏡をのぞき込みました。なんと手鏡の中の顔は、イボがビッシリ。いえ、顔だけてはなくて、全身のどこもかしこもイボ、イボ、イボ。男は腰を抜かさんばかりに驚くと、「こりゃあ、仏罰だあ。」と、オロオロし始めました。でも、そのうちに、「お地蔵様にお詫びして、許していただかなくちゃあなんねえ。」
 と、朝霧にかすむ山の中へ飛び込んで行きました。そして、何ときか後に山で取って来た特大のヤマイモの実で、特大の首飾りを作りあげると、今度はイボ地蔵様の前へとって返しました。そして、鳳仙寺沢の水でお地蔵様の体をていねいに洗い流し、塩ですっかりお清めを済ませると、その場に土下座をしてお地蔵様にお詫びをし、涙ながらにイボ取りのお願いをしたのです。
 怒り心頭にあったお地蔵さまも、もともと心の広いお地蔵様でした。土下座して涙する姿に、この男の過ちをお許しになられて、全身のイボをきれいに取り去ってくださいました。
 この事件以来、イボ地蔵様のあらたかさ、尊い御利益は一層有名になって、祈願者の波をますます大きくしたのでした。

一願一言地蔵

一言で願いをかなえます。イボ地蔵の相向かいに安置されております。
 このお地蔵さんは、ただ一願を一言でお願いすれば、どんな事で必ずもかなえて下さると伝えられる大変あらたかなお地蔵さんです。安楽ポックリの往生もかなえられると伝承されています。

鳳仙寺総門と表参道

鳳仙寺参道の、杉並木 約500メートルは、この石門から始まります。今では門の横に道路があり、車で参拝出来ます。

多重塔

聴松庵 裏手の竹藪の中に、多重塔ががあります。竹林に風景がマッチして綺麗です。
側には、青銅で出来た灯籠「常夜灯」があり、夜には、風情があります。