末寺が市内外に11カ寺

すでに六カ寺が廃寺となる

鳳仙寺と本末の関係にある末寺は、現在、市内に十カ寺、足利市に一カ寺、計十一カ寺を数えます。この末寺は、第七世・儀拈牛把大和尚、第八世・応山牛喚大和尚の代の寛永~寛文期(一六二四~一六七二)の五十年間に、そのほとんどが創建されています。

一時期は十七カ寺の末寺数を数えましたが、その後、閑心院、宗円寺、東沢寺、福寿院、東光院、上平院の六カ寺が廃寺となり、現在は十一カ寺が、宗門の布教活動や福祉活動に積極的に取り組んでいます。

末寺十一カ寺の概要を次に紹介します。(順不同)

猿沢山鷹林寺

(桐生市梅田町四丁目在、現住・大沢尊光師)

猿沢山鷹林寺(えんたくさん・ようりんじ)は、元和元年(一六一五)に、常陸(茨城県)牛久・金竜寺の宝山宗珍和尚の山居の道場として開かれたお寺で、開基は小沢勘解由公、開山は宝山宗珍大和尚、中興開山・鳳仙寺第七世・儀拈牛把大和尚です。その昔は、二渡村(現在の梅田町四丁目)の鷲の谷に在った桂林庵でした。 徳川家康公の江戸城入城のときに、牛久・金竜寺と本末の儀を約しています。その後、第四世・宗関厳貞大和尚のときに火災に逢って一切の堂宇を焼失し、現在は客殿と山門を残すのみです。 境内に安置されている子育て観音は、北向観音とも呼ばれ、縁結び、子授け、安産、子育てに御利益がありますので、堂前に多くの祈願者が訪れています。ご本尊は聖観世音菩薩。

竜沢山長泉寺

(桐生市梅田町四丁目在、現住・大澤弘之師)

禅宗の開祖・達磨大師を祀る竜沢山長泉寺(りゅうたくさん・ちょうせんじ)は、開基・岩下平左衛門茂吉公、開山・鳳仙寺第七世・儀拈牛把大和尚で、安永年間(一七七二~一七八〇)に創建となっています。しかし、開山示寂年代(寛永二十年・一六四三)からしますと、開創年が、さらに百年以上は溯るのではないかと思われます。開基の岩下公は、由良氏家老・藤生紀伊守の嫡男です。
酒を備えて難病快癒祈願をしますと、たいへんに御利益があるという、境内の「六三大士」は、近隣に知名度が高く、祈願者の絶えることがありません。ご本尊は釈迦牟尼仏です。

鶴松山高園寺

(桐生市梅田町三丁目在、現住・佐藤憲秀師)

鶴松山高園寺(かくしょうざん・こうえんじ)は、開基・小曾根氏、開山・松堂長源大和尚で応永年間(一三九四年ころ)に創建されました。
天文二年(一五三三)に、見事な七堂伽藍が完成しました。しかし、天正年間(一五七三年ころ)に伽藍のすべてを焼失し、寛永年間(一六二四年ころ)に至って、ようやく儀

拈牛把大和尚(鳳仙寺第七世)によって再建されました。けれども、その後も二度にわたる火災、また水害に逢うという難儀を受けてしまいました。現在の伽藍が整ったのは昭和六十三年でした。

本堂脇に小さな池がありますが、その池は、木曽義仲と源範頼・義経軍が戦った宇治川の合戦(寿永三年・一一八四年)での先陣争いで知られる、名馬「池月」が育てられた池との伝承を残していて、今も大切に保護されています。また、境内の「延命観音」は、常時、善男善女の参詣を受けています。ご本尊は聖観世音菩薩です。

桂林山久昌寺

(桐生市天神町三丁目在、現住・小林喜道師)

地元の人々から 「お不動さま」 として親しまれているのが、桂林山久昌寺 (けいりんざん・きゅうしょうじ)です。開基は不祥ですが、開山は鳳仙寺第八世・応山牛喚大和尚です。
この寺域は、桐生氏治世当時、桐生城(梅原館)のお茶の水を汲んだ所と伝えられています。天保十四年(一八四三)三月に起こった、桐生の歴史に残る荒神の大火は、寺のすぐ西側が出火場所でしたが、このと きは、幸いにも風上に寺が位置していたことから伽藍の焼失を免れています。が、境内地には荒神の大火に拘わる事蹟が多くあります。この大火で無実のまま火あぶりの刑に処せられたと伝えられる金八の霊を弔う「金八地蔵」が祀られていますし、ご本尊も、この大火に深い拘わりをもった仏様なのです。

ご本尊は、曹洞宗には珍しい不動明王です。当初は、荒神の大火で焼失した神恵寺から依頼されて、寺に安置していた不動明王でしたが、大正年間(一九一二~一九二五)に正式に久昌寺へ譲られ、以来、久昌寺ご本尊として、不動堂(本堂)内に祭祀されるようになりました。

なお、久昌寺は、桐生七福神第五番札所・恵比須神の寺でもあります。

大慈山光明寺

(桐生市宮本町三丁目在、現住・坪井良行師)

大慈山光明寺(だいじざん・こうみょうじ)は、開基・学叟雲碩和尚、開山・鳳仙寺第七世・儀拈牛把大和尚となっていますが、これは、水月庵が大慈山光明寺と改称されたときの開基、開山名で、寺伝では、「聖武天皇の勅願により、天平宝字十一年(七三九)に行基菩薩が自ら千手観世音像を刻んで安置し、開創した。」とあります。
ご本尊は、伝・行基菩薩作の千手観世音菩薩で、東毛観音霊場第三十二番札所、桐生七福神第一番札所という名刹でもあります。

境内を見渡しますと、そこここに石仏が数多く安置され、ことに山門脇や御獄山御籠堂周辺の石仏・石神群の造立塔数は圧巻です。その石仏・石神群の中から、愛染明王像や不動明王像をはじめ、信仰面からはもちろん、美術的にも貴重な多くの石仏たちと対面することができます。

青竜山養泉寺

(桐生市東二丁目在、現住・田中秀孝師)

青竜山養泉寺(せいりゅうざん・ようせんじ)は、永禄年間(一五五八~一五六九)に創建されました。開基・金谷因幡守、開山・曲外嶺松大和尚(鳳仙寺第十一世)です。
はじめは、金谷因幡守によって水竹庵の名で創建されましたが、正徳四年(一七一四)に竹本土佐守によって本堂が建立されたことから、鳳仙寺第十一世・曲外嶺松和尚を開山に迎えて、現在の山号・寺号にしました。

境内に祀られている「豊川稲荷」は、商売繁盛・家内安全で信奉があり、山門近くに祀られている「お茶婆さん」は、眼病・とげ抜きにたいへん御利益があると言われ、多くの桐生市民に深く信仰されています。ご本尊は、釈迦牟尼仏です。

円戒山光性寺

(桐生市東四丁目在、現住・斉藤愛香師)

円戒山光性寺(えんかいざん・こうしょうじ)は、開基・石原石見守正時公、開山・鳳仙寺第二十四世・大亮賢道大和尚によって創建されましたが、創建年は定かではありません。境に樹齢四百年を超える松の大木が存在することからも、およそ四百五十年ほど前には、すでに創庵されていたのだろうと推測されています。
ここの寺では、ご本尊の阿弥陀如来とともに本堂内に安置されている、市重要文化財の不動明王像がたいへん有名です。重文・不動明王像は、平安期末作(十一~十二世紀)の木彫・立像で、下野国(栃木県)の人・妙宏師が、文化十四年(一八一七)に京都から動座したものとの寺伝があります。桐生市内三大古仏の一つという、とても貴重な仏像です。

無畏山普門寺

(桐生市菱町四丁目在、現住・白石浩秋師)

菱町富士と言われる、標高70メートルの台地に位置する無畏山普門寺(むいさん・ふもんじ)は、天正三年(一五七五)に、桐生城主・由良成繁公が、新田から移築して開創された寺で、自らが開基となられています。開山は鳳仙寺第十七世・黙外寂曜大和尚です。
この寺は天保十四年(一八四三)に、桐生が大変な災害を受けた『荒神の大火』によって、寺のほとんどの伽藍が焼失するという大被害に逢いました。現在の壮大な伽藍は、昭和三十五年(一九六〇)~五十二年(一九七七)にわたって建立されたものです。

今では毎年一月十五日に開かれる「桐生だるま市」の寺、藁干し観音・ぽっくり観音・延命観音の別称を有する十一面観音例祭(毎月十八日)がもたれる寺として近隣に知られ、縁日には、境内はもちろん、参道までもが人々々であふれるほどです。ご本尊は聖観世音菩薩。

普門寺のある台地は、「普門寺遺跡」と言われる縄文時代の遺跡で、過去に多数の土器・石器が発掘されています。

瑞雲山文昌寺

(桐生市菱町三丁目在、現住・大沢邦裕師)

瑞雲山文昌寺(ずいうんざん・ぶんしょうじ)は、風光明媚な好適地にありますが、開山が鳳仙寺第八世・応山牛喚大和尚ということ以外は、開基も創建年も定かではありません。普門寺同様に、荒神の大火(天保十四年・一八四三年)によって、伽藍が一堂も残さず焼失してしまったことに、 その原因があるようです。現在の伽藍は、昭和四十八年(一九七三)~昭和六十年 (一九八五) にかけて建立されたものです。もと菱領主・細川家菩提寺の西膳院(廃寺)は、文昌寺で現在もなお合併管理をしています。
古くから安置されている「子育て地蔵尊」と、あわせ祀られている「水子地蔵尊」が、とみに有名になっており、最近では『水子地蔵の寺』として、参詣する人々が増加して来ています。ご本尊は虚空蔵菩薩です。

田沢山泉竜院

(桐生市菱町二丁目在、現住・大沢尊光師)

田沢山泉竜院(でんたくさん・せんりゅういん)は、正しくは 「田沢山青松林泉竜禅寺泉竜院」といいます。応永二十四年(一四七一)の創建で、開基・桐生出羽守、開山・不盡大壽大和尚、中興開山・鳳仙寺七世・儀拈牛把大和尚。山林寺号を有する古禅林で、ご本尊は釈迦牟尼仏と薬師如来です。
慶安二年(一六四九)に徳川三代将軍・家光公から特使があり、山門(瓦に葵紋を使用)を建立し、以後、 徳川家と庶民の厄除け寺として栄えて来ました。現在も『桐生厄除け薬師霊場』として、また『特別祈祷寺』として栄えており、近隣から大勢の善男善女の参詣があります。

境内の四方竹群(市指定天然記念物)、コウヤマキ・多羅葉・大王松(市指定保存樹)、あるいは、菱領主・細川内膳公の屋敷門、本堂欄間の彫り物(名工・関口文次郎彫作)などは、一見の価値があります。

中里山宝福寺

(足利市福居町在、現住・清水邦彦師)

中里山宝福寺(なかざとさん・ほうふくじ)は、栃木県史、足利市史にも記述がなく、わずかに「日本寺院名鑑」に寺号と住所が載っている という状態のため、目下のところ、開創年、開基、寺歴は不詳です。鳳仙寺の記録によりますと、開山は鳳仙寺八世・応山牛喚大和尚となっています。
しかし、本堂内の欄間の古様さ、素晴らしさ、足利市内の宗教関係特別展にたびたび出展されているという貴重な大型絵馬の存在、また、ご本尊が『延命地蔵尊』ということから奉納されている多数の地蔵絵馬、そして、墓地内の「足利市指定重要文化財・中里城主夫妻層塔」の存在すること等々からは、歴史のある寺院と見られます。

そればかりか、山号を所在地旧地名であり、城主の所在地であった「中里」から取っている事実からも、かなり由緒のある古刹と見てよいのではないでしょうか。