はじめのことば

桐生山鳳仙寺は、天正二年(一五七四)の昔に、北関東の雄と称えられた桐生・太田・館林の城主・由良信濃守成繁公が、自らの菩提所として建立された曹洞宗のお寺です。時は戦国の世の中でした。

その戦国の世の最中に、このような壮大な菩提所建立—– このこと一つとりましても、開基・成繁公が、いかに深い信仰の心をおもちの武将であったかが強く強く偲ばれます。

開創以来、鳳仙寺は、間もなく四世紀半になんなんとする、永い法灯の歴史を刻んで今日を迎えています。この永い歴史の中で、鳳仙寺は、幸いにも火災やその他の災害に遭遇することなく、開創当時の面影を色濃く残して現在に在ります。それだけに、桐生市のみならず、群馬県の歴史をひもとく上での、誇り得る貴重な文化財も多数所蔵しています。

このように自然環境や伽藍建造をはじめとする諸々の状況は、東毛の名刹として誇り得る寺院と言えましょう。しかし、永い歴史のすべてが恵まれていた訳ではありませんでした。領主開基の寺として、開創当初はとにかくとして、この四世紀半の時の流れは、常に順風満帆とばかりはいきませんでした。開創五年目にして、早くも開基・由良成繁公の逝去があり、そして、十七年目の天正十八年(一五九〇)には、鳳仙寺最大の庇護者であった由良氏(国繁公)が常陸の牛久(茨城県)へ転封されるという、寺運営の一大危機を迎えています。それ以後も、法灯の盛衰はいくたびとなくあり、苦難の道は文字通り多々ありました。

明治時代を迎えますと廃仏毀釈(はいぶつきしゃく。仏教を廃し釈迦の教えを棄却しようとする政府の神道国教政策、神仏分離政策によって引き起こされた仏教排斥運動)の波をも被っています。

こういった幾多の危機を無事に乗り越えて、鳳仙寺が今日あるのは、苦難に流されることなく、輝かしい法灯を厳として守り通し、誇りあるお寺の歴史を見事に担ってこられた歴代の住職の心血と、その住職を核にし鳳仙寺を維持してこられた、篤心の檀信徒の厚い信仰心に依るものといえましょう。

ところで、諺言に『温故知新(おんこちしん)』という言葉があります。これは「過去の出来事を十分に理解し、そこから新たな知識を導き出すこと」の意味があります。現在は「物の豊かさ、使い捨ての時代」が去り、『心の豊かさ、大切さ』が見つめ直されてきているときです。このときにこそ、私たちは鳳仙寺の歴史や、祖先が築いてこられた多くの業績等を振り返り、過去(歴史)をしっかりと理解し、新たな進路を定めることが肝要のように思われます。このことは、単に鳳仙寺の充実・発展につながるというだけではなく、私たち自身の心を豊かにする修行の一つとなるのではないかと思います。

皆さんと共々に菩提寺・鳳仙寺の理解を一層深め、あわせて菩提寺の今後を語る上での手がかりにしていただきたいと願い、この『桐生山鳳仙寺HP』を作成してみました。

合掌

歴史

桐生領主・由良成繁公が創建する

東毛地区の名刹と称えられ、曹洞宗常法幢・別格地の古刹である『桐生山鳳仙寺』は、戦国時代の真っ只中にあって、天下が大きく揺れ動いていた天正二年(一五七四)に、桐生領主・由良成繁公が自らの手で開創されました。

由良氏が桐生氏との合戦に勝利して、桐生領を支配下に収めたのは、前年の天正元年(一五七三)でしたが、その年は、一族の横瀬勘九郎を城代家老に据えて新領地を支配させ、成繁公は、桐生入部はしませんでした。

成繁公が桐生へ入部をされたのは、嗣子・国繁公に金山城を譲って隠居した、翌年五月一日のことでした。成繁公は、鳳仙寺という荘厳で広大な伽藍を桐生入部の年に落慶させているのです。ここに、戦国の世を生き残るための熾烈な合戦の日々を送り続けた武将でありながら、信仰で心の潤いの場を見いだし、それを「生きる支え」にされておられた成繁公の『人生・人柄』といった面を伺い知ることができましょう。

当山は由良家菩提所

鳳仙寺は、豊かな自然の懐に抱かれた別天地にあります。全山が真っ赤に燃え上がるツツジ満開の春。目の覚めるような青葉で、心まで緑に染まってしまうほどの夏。自然の織り成す綾錦に感嘆させられる紅葉の秋。そして、全山静寂で木枯らしの音さえ御仏の声に聞こえてくる冬。文字通り「静寂閑雅」な霊地にあります。

この素晴らしい霊地に在ることから、寺名は『鳳仙寺』とされました。これは唐人白山の「鳳凰飛舞仙人遊楽之霊地也」から採ったものです。また、瑞兆の帰結から山号は『桐生山』とされました。その上に名田百石余をも備わった『由良家菩提所』と定められたのです。

開創当時は、現在の伽藍のほかに勅使門、坐禅堂、衆寮、書院、倉庫、それらの建物を結ぶ回廊が巡らされた見事な伽藍でした。これは、近隣では傑出した大伽藍でしたから、両毛地方に厳然たる勢力を示しておられた桐生領主の菩提寺として、十分な規模を誇り得る名刹でした。

開創十七年目に最初の存亡の危機

領主開基の寺として創建された鳳仙寺の寺運は、まさに盤石でした。が、開創五年にして、はやくも、領主・成繁公ご逝去という不運に見舞われました。でも、このことは嗣子・国繁公の変わらない寺への篤心で無事に乗り越えられました。

寺が存亡の一大危機に晒された最初は、その十二年後の天正十八年(一五九〇)のことでした。豊臣秀吉公の天下統一への最終戦となった小田原合戦の折りに、領主・国繁公が小田原・北条方に味方したため、小田原方敗戦によって桐生城が廃城となってしまったからです。しかも、秀吉公の怒りに触れて、領主・由良氏が桐生領を召し上げられ、常陸(茨城県)牛久への転封を命じられてしまったのです。寺としては突如として、最大の庇護者を失ってしまったのですから、たいへんな危機に遭遇してしまったわけです。

その寺の悲嘆を救ってくださったのが、秀吉公から関東支配を任された徳川家康公でした。家康公は、寺領十石とともに成繁公以来の名田百石余をも安堵され、寺衰微の危惧払拭してくださったのです。寺の衰微の危機は、その後も度々襲って来ました。しかし、その都度、名僧・傑僧が輩出して、その波を押し返しています。

十一世代には曹洞宗別格地に

七~八世住職のころには、現在の末寺の大半を開山され、鳳仙寺内では常時四十人を超える雲水が参禅修学して教導を受けるという大道場の機能が構成されました。これは、地方寺院としては稀に見る寺院活動の展開で、鳳仙寺興隆の証しでした。

名僧・傑僧の輩出、宗門における格別な貢献から、十一世の代には、『常法幢・別格地』の寺号が授けられました。元禄元年(一六八八)のことでした。常法幢とは公儀から勅許された出世道場のことで、別格地とは、本山に次ぐ格式ですから、大変な栄誉です。このとき、一段と『鳳仙寺盤石』の感が強くなりました。

徳川時代(一五九六~一八六七)から昭和二十八年(一九五三)に至る曹洞宗の寺格は、大本山(永平寺・総持寺)=常法幢=片法幡=随法幡=一等法地=二等法地=三等法地=四等法地=平僧地の九段階に分かれておりました。この段階からみますと、鳳仙寺は大本山に次ぐ上位 にあったことが分かります。

現在の鳳仙寺は、別格地(常法幢)となっています。

時代が徳川幕府の世となりました享保十二年(一七二七)、幕府の要職・奥高家に出世た成繁公六代の孫・横瀬貞顕公が、子息・貞国公を伴って鳳仙寺を訪れました。そして、成繁公の百五十年遠忌を厳かに営まれた上で、成繁公の墓石を大型五輪塔に修建されました。これが桐生市の史跡に指定されています、現在の墓石です。貞顕公は、この時、先祖供養として経文二巻を写経して進納もされました。

県内有数の名刹に発展

多くの名僧・傑僧の輩出で、苦難・危機を比較的小さく押さえて、着実に充実・発展を重ねてきた鳳仙寺の四百五十年になんなんとする歴史—-。しかも、開創以来の法灯が途絶える事なく続き、この間、一度として火災に遭遇することなく今日が迎えられましたことは他に類例が少なく、驚嘆に値すると言われます。

お陰で、ご本尊をはじめとする仏教美術・絵画・彫刻・工芸・書跡・典跡・古文書、そして伽藍の建造物等々、宗門史上貴重な諸資料を豊富に現代に伝えることが実現できています。その資料所蔵量は質量ともに県内屈指で、現在では鳳仙寺の大きな誇りとなっています。『鳳仙寺は文化財の宝庫』と、世間から称される由縁です。

今や県内有数の名刹・鳳仙寺として、厳にこの地に在るのです。鳳仙寺は、まさに「華麗な寺歴」を誇る古刹なのです。

鳳仙寺全景(航空写真を見る)

前のページに戻る