一度として火災の難に逢うことなく、また風水害などの災害にも逢う事なく、実に四世紀半になんなんとする豊かな歴史を築き上げている鳳仙寺—–。 それだけに鳳仙寺には文化財・寺宝が驚くほど豊富に所蔵されていて、質量 ともに県内屈指を誇ります。

 それにしても、その大量の資料を目のあたりにしますと、「よくぞ、これほどの量 を現代へ遺してくださったもの」と感嘆させられます。歴代住職さんたちの情熱が伝わって来ます。

 すでに桐生市史編纂の際に、鳳仙寺資料の多くが取り上げられ、紹介されていますように、鳳仙寺には、桐生市はもちろん、群馬県の中世以降の歴史ををひもとくうえには欠かせない、貴重な資料が大切に保存・管理されているのです。

 紙数の関係で、その大量の文化財・寺宝のすべてをここに掲載することはできませんが、その一部を紹介し、そのすばらしい資料を垣間見ることにします。

ご本尊は釈迦牟尼如来

 

 鳳仙寺ご本尊は、釈迦牟尼如来様です。それも白象に座す普賢菩薩様と、獅子に座す文殊菩薩様を脇侍にする『釈迦三尊仏』です。(7ページ参照)

 主尊の釈迦如来様は、慈悲と智慧の二徳を備え、悟りを開いて広く衆生を済度された仏教の開祖「釈尊」で、世界四聖人の一人です。また、普賢菩薩様は仏の真理や徳を司り、文殊菩薩様は智慧を司る菩薩様です。

 このご本尊は、鳳仙寺開創当時から本堂に安置されている古仏で、すでに四百五十年近い永い歳月ここに座して、檀信徒からの信奉を得、衆生済度を重ねてきているわけです。鳳仙寺第一の寺宝です。

 建築以来、星霜すでに四世紀半—–。 先年(昭和六十一~六十三年)行われた改修を含めて、何度かの補修(江戸時代中期の新田義貞公四〇〇回忌に屋根替え、明治三十四年に屋根替え、昭和二十九年に改修)がなされてはいますが、落慶当時の形態をそここに残しており、室町期から江戸期の寺院建築様式を遺憾なく現代に伝えている建築物です。本堂は、市指定文化財となっている山門(後述) とともに、 鳳仙寺が県内外に誇れる貴重な建築物なのです。

本堂の広さは百坪(330平方メートル)あります。

 内陣・須弥壇の荘厳なこと、内部に太い柱、梁が巡らされ、どっしりとした中にも厳かさを参詣者たちに強く感じさせます。豊かな歴史の跡を随所に残している造りであること等々、近隣に誇れる建築物であると言っていいでしょう。

近年高齢化時代に備え本堂に車椅子のスロープを設けました。

鳳仙寺本堂

[桐生市指定重要文化財〈建造物〉]

本堂は貴重な建築文化財 
 ご本尊の安置される本堂は、建築文化財とも言える内容と永い歴史を重ねてきています。本堂が落慶したのが天正二年(一五七四)五月です。以来、幸いにも一度も火災や風水害に逢うこともなく現在を迎えました。

平成14年3月、鳳仙寺本堂、桐生市指定重要文化財〈建造物〉に指定されました。

構造及び形式  入母屋造平入 銅板葺  桁行9間(19.892メートル)梁間8間(16.161メートル)
建築年代  享保11年(1726)以前
市内唯一の八室構成からなる大規模な方丈形式本堂であり、かつ曹洞宗本堂の伝統的な形式をよく伝える貴重な建造物である。また、市内に残る木造建造物の中で最も古い範囲に入り、最大級の規模であることから、建築的に、また建築技術の面 でも貴重である。

平成14年3月13日桐生タイムスの記事

平成14年3月、鳳仙寺本堂、桐生市指定重要文化財〈建造物〉に指定されました。
指定書の指定理由には、「市内唯一の八室構成からなる大規模な方丈形式本堂であり、かつ曹洞宗本堂の伝統的な形式をよく伝える貴重な建造物である。
また、市内に残る木造建造物の中でも最も古い範囲に入り、最大級の規模であることから、建築的に、また建築技術の面 でも貴重である。」と書かれています。
この、ご本尊の安置される鳳仙寺本堂が落慶したのが天正二年(一五七四)五月です。以来、幸いにも一度も火災や風水害に逢うこともなく現在を迎えました。
建築以来、星霜すでに四世紀半—–。 昭和六十二年に行われた改修を含めて、何度かの補修(享保十一年に改修、明治三十四年に屋根替え、昭和二十九年に改修)がなされてはいますが、落慶当時の形態をそここに残しており、室町期から江戸期の寺院建築様式を遺憾なく現代に伝えている建築物です。
本堂は、市指定文化財となっている山門とともに、 鳳仙寺が県内外に誇れる貴重な建築物なのです。 本堂の広さは一〇〇坪(330平方メートル)あります。
内陣・須弥壇の荘厳なこと、内部に太い柱、梁が巡らされ、どっしりとした中にも厳かさを参詣者たちに強く感じさせます。豊かな歴史の跡を随所に残している造りであること等々、近隣に誇れる建築物であると言っていいでしょう。

由来及び沿革

本堂は市内では数少ない八室構成で、大規模な曹洞宗本堂の形式をよく伝えている。前方には一間通 りに通り土間と一間通りの広縁がある。建立以来数度の改修が行われ、内外陣境の柱と来迎柱には後世の嵩上げをした改造等がみられる。組物は内外陣境柱筋と来迎柱筋の各柱上に出組を組む。
全体に素木を基調とし、内外陣境、須弥壇上部に彩 色の彫物を用いているが、当初からの彩色であるかは不明である。昭和62年の改修で広縁の床板を削り直したが、2種類のあり溝が桟のない状態で張られており、建立より現在まで少なくとも3回の修理が行れている。

 現在、外陣と両脇間境に柱はないが、小屋裏調査により、柱を吊束へと改造した痕跡がみられる。これは元禄期とされた旧大雄院本堂と同時代の部分が残されている可能性を示している。
内外陣境欄間裏には「彫物一枚 鶴松図 施主 高橋小平次 享保十一年(1726)」ほかの墨書がある。  当寺には由良成繁、国繁父子連名の古文書ほか、幅広い年代の古文書等が残り、火災や災害の記録、言伝えもない
。また、元禄6年(1693)「奉願常法幢之事」の文書から、その後幕府より常法幢・別 格地として認められたことがわかり、その30余年後の享保12年(1727)には開基成繁の百五十年忌の大法要が行われている。本山に次ぐ地位 の別格地になったことと、大法要を行うために大改築、明治34年に茅葺から瓦葺に屋根替えをし、小屋組や外陣の天井等が改修された。以上のことから、当本堂は元禄またはそれ以前の遺構を残し、享保11年に改築された本堂と考えられる。

 末寺17ヶ寺を持った桐生市における曹洞宗の中心寺院の本堂であり、伝統的な八室構成からなる風格のある貴重な建造物といえる。

天井の絵画

(作者:林青山について)

青山の絵は、本堂の内陣、大間、廊下の格天井に圃かれている。内陣には大九格面、小十六券面があり、大券面には龍が両かれ、側面に「青山敬寫 印」の落款がある。小格面には十二支などの花鳥獣が圃かれている。大間には四十二面すべてに花鳥獣が両かれているが、天蓋、縁幡が吊るされていて見えにくい部分かおる。
これに対し廊下の格天井は四行二十九列の面に、人物(七福神その他)が十八面、花鳥獣が九十八面圃かれている。人物は七福神以外はさまざまで、花鳥獣の図もそれぞれでる。左隅に駕寵が、中央に額が飾られていて、見えにくい部分もある。

市重文 鳳仙寺山門(附・山門建立化簿)

 昭和六十三年(一九八八)十月五日に重文指定されたもので、間口8メートル、奥行き4・4メートルの三間一戸・入母屋造の楼門です。建立は宝永元年(一七〇四)八月。

 山門は、格調の高い禅宗様式の建造物で、均整のよくとれた、雄大で豪華で、優れた建築意匠構成を示します。また、大きさにおいても、桐生市域では類を見ない規模を誇って

います。正面の両脇間に金剛柵を設けて、増長天と持国天(ともに寺宝ですので、後述します。)を安置し、主柱四本、控え柱八本があります。そのいずれもが丸柱使用となっています。それら柱の多くの柱脚、柱頭には禅宗様相が示されています。

 二階の扉は、正面が四枚の観音開きの唐戸で、一部にはすかし彫りが見られます。また、擬宝珠高欄が巡らされていますが、それの四隅の擬宝珠柱の頭部には、禅宗様式の特徴である唐様蓮頭が見られます。この他に台輪・皿戸・詰組・隅木にも禅宗様相が見られます。

 蟇股は計十二設けられ、それぞれに精巧な十二支が配されています。中でも通 路上の子・巳・午・亥の蟇股には、すかし彫りが施されていますし、両脇間冠木上の篭彫雲水竜は見事です。

 『附』の「山門建立化粧」は、宝永元年(一七〇四)、第十一世・曲外嶺松和尚の代に、山門建立のための資金を門中寺院や各村々から募った記録で、当時の建築費の概要を知る上での貴重な資料です。

構造及び形式 三間一戸楼門 瓦葺入母屋造
制作年代 宝永元年(1704-297年)

指定申請の事由並びに由来、伝説

 宝永元年8月(1704-284年前建立された。高さ十メートル五十三センチの三間一戸の楼門で、両脇間は板を  張り壁体とし、前面と通路側に金剛柵を設けて、中に仁王(増長天・持国天)を配 している。
  主柱4本と控柱8本(八脚門)で構成されて全てが丸柱。通 路に面した主柱(2 本)以外の10本は、柱脚・柱頭に禅宗様粽(ちまき)、礎盤は木製である。先の 主柱(2本)のみ柱頭に粽、切石の礎石に建つ。ここに地貫様の横木を渡して浄域 との区画を意図している。上層部の柱は10本の丸柱で柱頭に粽。

 二階入口は、二折り四枚の観音開き唐戸で一部に透かし彫り。
  開閉は藁座に差し込まれる。両脇間には花頭窓が設けられ内部の障子(両引き)で明かり取りとなっ ている。両側面・前面の間は二枚の引き違い板棧戸。

 二階に縁を巡らし、縁は木鼻上に二手先組に縁葛(えんかずら)が廻る。擬宝珠  高欄を廻して四隅の擬宝珠柱の柱頭は、唐様逆蓮頭で禅宗様式の特徴である。
 蟇股は、台輪上で、通路両面上に各々2個、左右脇間に各1個、左右側面に各々 1個、合計12個が設けられ、その各々に干支が精巧に彫刻されている。裏側(参道から見て)通 路上の右側から、右廻りで順次干支順に配されている。通路上の、 巳・午・子・亥は透かし蟇股である。
 両脇間冠木上には、篭彫り雲水龍が嵌め込まれている。

 建築様式は、和様と唐様の折衷様式であるが、最大の特徴は、県内唯一の本格的 扇垂木(おおぎだるき)で雄大さを見せ、台輪・皿斗・詰組・隅木等の禅宗様式を 随所に用いて、均整も良くとれ、豪華で優れた建築意匠的構成と、卓越した技法が 認められる。

 また、当寺第十一世曲外嶺松和尚の代に、山門建立のため、門中寺院ならびに各村々より建立資金を募った経緯を記した「山門建立化簿」が現存している。これに よれば、建築部材の木鼻・縁板・蟇股・組物・材木等々の指定寄進によって、当時 の建築費の概要を知ることが可能である。

  以上の様に、鳳仙寺山門は、格調の高い禅宗様式であり、均整も良くとれ雄大に大変豪華で優れた建築意匠的構成を見せ、桐生市域に類を見ない貴重な建造物であります。

参考

 ◇山額は「桐生山」で、書家の佐玄龍は江戸の能書家・佐々木玄龍(享保7年没― 七十三歳)と考えられる。
 ◇二階内部には、広目・多聞天。弥勒観音。吉祥天。釈迦牟尼如来像。阿難陀。大迦葉。十六羅漢等が安置されていたが、明治維新期の廃仏毀 釈の難を逃れるために、本堂内(一部は天井裏)に避難され、現在は十六羅漢等一部が本堂に、他は山門二階に遷座されている。
  十六羅漢像は慶友尊者を含めた十七躰であり、これら諸像は、延亨四年三月(1747―   年前)町屋(現天神町)の長沢三郎兵衛が寄進し、その後明治26年、板鼻の仏師法橋祐慶が修理している。
  この時、釈迦牟尼如来、阿難陀、大迦葉、弥勒観音、吉祥天、持国、増長、広目、多聞の諸像も修理された。禅宗様釈迦三尊は大変珍しい。
  各尊像は彫刻としても細部の表情にいたるまで、見事な写実で、確かな木仏師・彩 色師によって造像彩色されたものと考えられる。
第二六世蘭州朴道大和尚明治21年6月に楼門を茅葺き屋根から瓦屋根に改築致しました。
今も、棟木は楼門天井裏にあります。

注)山門建立化簿に見られる十七世黙外寂曜の添付書、曲外和尚の鳳仙寺住職在任期間(1675-1712年)から見ても,宝永年間(1704-1712年)の誤りと考えられる。

市重文 鳳仙寺輪蔵

 昭和五十四年(一九七九)八月十日に重文指定されています。輪蔵は、白壁塗りの鞘堂の中に納められており、中心の柱を軸に八面 の経架が設置されていて、手押しで自在に回転させることができる構造になっています。

 八面の経架のうち、中央には双林大士を安置し、残りの七面に延宝七年(一六七九)版行の鉄眼版一切経六千九百五十六巻が蔵されています。

 経架の前面周囲には椽が張られ、高欄を巡らし、宝珠柱の頭部には唐様の逆蓮頭が用いられています。今日でも軸柱と差肘木との仕口に弛緩が見られず、スムーズに回転させることができます。この輪蔵の製作年代は伝・天明三年(一七八三)とされています。

《 鉄眼版一切経 》

 

 一切経とは漢訳された仏典の集大成のことで、経(仏の説法)、律(教徒の生活規律)、論(教義についての学者たちの記述)の三部門から成っています。

  一切経は、江戸初期に天海大僧正が、幕府の命により天海版を印刻しましたが、木活字を使ったため、ほとんど普及しませんでした。それを鉄眼和尚が勘案し、 求めに応じて自由に印刷ができる、 固定木版を用いた利用価値の高い『鉄眼版一切経』を版行しました。この版木は、現在、国の重要文化財となって、万福寺宝蔵院収蔵庫に大切に保管されています。しかも、この版木での一切経が現在も敬虔に刷られていて、国内外に刊行されているといいます。

  《 鉄 眼 和 尚 》 鉄眼和尚は、寛永七年(一六三〇)、肥後国(熊本県)益城郡の佐伯家に生まれました。七歳のときには、すでに観無量 寿経を暗唱したと言われます。十七歳で故郷を離れ、西吟師、隠元師、木庵師らに師事して成長しました。その鉄眼和尚に一切経刻版の火が灯ったのは、寛文八年(一六六八)、難波(大阪府)月光院での講話で、大蔵経刻版の志を語ったところ、感動した観音寺の妙宇道尼が、白金一千両を喜捨したことによると言われます。

 この大事業遂行のための資金を得るために行った鉄眼和尚の講経は、さらに計十七回、小講演は数十回に及んだと言います。そして、足を棒にして全国を行脚し、喜捨を募った苦節十七年の旅の末、ついに一切経を完成させたのです。その我が国の文化に大きな影響を及ぼした『鉄眼版一切経』が、いま鳳仙寺輪蔵内に在るのです。

《 400字詰め原稿用紙のルーツは鳳仙寺にあり 》

「夏休みの宿題の作文は、原稿用紙三枚だそ」と先生が言います。
こんなとき「ええーっどのくらいの文字数になるの?」なんて悩むことはありません。
常識的に原稿用紙一枚はと言えば四百字。だから三枚と言われたら千二百字以内で書けばいいのです。
ところで、原稿用紙一枚の文字数が四百字となった元を作ったのは、今から三百年程前に大活躍したお坊さま、鉄眼さまです。
鉄眼さまは、中国から伝えられた「大蔵経」という六千巻以上に及ぶ仏教教典を後世に残しておくため、木版印刷で修復する事を決意して、資金集めのため全国各地を托鉢行脚。
数々の困難を乗り越えて彫った木版は何と六万枚・・10数年の年月をかけてついに完成したのです。
木版を彫るにあたって、鉄眼さまは、一枚の木版に入れる文字数を、タテ二十字でヨコ二十行、つまり一枚の版木に四百字を入れることに決めたのです。
ここに原稿用紙一枚四百字のルーツがあるのです。ちなみに鉄眼さまが完成させた大蔵経は、七千三百三十四巻にもなりました。
今も「鉄眼版大蔵経」として鳳仙寺に残っています。山門の下の、今回修復完成した輪蔵、蔵の中に大切に保存されています。

市史跡 鳳仙寺由良成繁公の墓

天正元年(一五七三)三月十二日、桐生氏との合戦に勝利をし、桐生の新領主となった由良信濃守成繁公の墓(五輪塔)で、昭和四十六年(一九七一)二月六日に史跡指定を受けています。

威徳の滝

 

鳳仙寺石門より参道を200m歩くと右側にあります。中段には不動明王が安置してあります。
夏場には滝を浴びる信者の方も時々見受けられます。